2012年の総選挙で自民党は「憲法改正、再軍備」をはっきりと公約に掲げていた。その後、安倍内閣は検討を重ね、20147月「憲法を改正せず、集団的自衛権を拡大する」という方針を閣議決定した。その後12月に総選挙があり、国会に集団的自衛権の法案が提出され、半年後に衆議院で議決した。

このことを村山元首相をはじめ、日本の知識人、大学の先生などが「独裁政治を許すな」と言っていて、それをマスコミが取り上げている。選挙が2回あり、3年を経過している。それでもなにも決められないなら、独裁どころか、「国会で多数派になっても政策を決められない政府」ということになり、制度の欠陥になるだろう。

問題は、「現在のままの国防」で良いとする意見と「中国の攻勢があるので国防を充実させる」という意見があるが、それを戦わせるのではなく、細かい違いだけを問題にしている。国民は12千万人いるのだから、大きな方向しか決められない。

たとえば「憲法を改正しなければ集団的自衛権の拡大は反対だ」と私個人は思っているが、それは「武田」がそう思っているだけで、多くの人(自民党支持者)が「憲法は改正しないで」ということなら仕方が無い。それでも中国の脅威を少しでも和らげる方向だから、何もしないより武田の考えに近い。「小異を捨てて大同につく」ことによって民主主義は機能する。

ところで、私は「NHKはなくすべきだ。それができなければ、施設はそっくりあげるから自分で稼いで放送を続ける。それもダメならせめて受信料は強制徴収せずに自由意志に任せる。すべてダメなら国有化して税金で放送する。そうすれば国営放送だとわかるから中立ではないことがはっきりする」という考えだ。

そして、法治国家だから何らかの改革が行われるまでは、イヤだけれど受信料は払う。「悪法も法なり」というのが私の基本だからだ。自分で「正しさ」を勝手に決めることはできない。自分の行為なら自分で正しさを決められるが、社会は合意した「法律」を正しいとして運営されているからだ。自分が正しいと決められるのは神様以外にはない。(参照、拙著「正しいとは何か」小学館)

しかし、NHKはいらないと言いながら受信料を払っていることでかなりのバッシングを受ける。「”NHKがいらないというのは同意するが、受信料を払っているとはケシカラン!」というおしかりだ。でも、「今のままのNHKならいらないが、改善されたらNHKがあった方が良い」とか、「NHKはいらないのだから受信料は払わない」という人まで細かいところになると意見が異なる人が多い。

まずは「今のNHKはいらない」という大きな枠組みで賛成なら、その他のことはお互いにバッシングしないほうが良いのではないだろうか? 歴史的にはやや左翼の考えの人が細かいところまで気にする。それはやや「正義」というものを重視するので悪いとは言えないが、それでも民主主義のもとでは「おおよその考えが一致している」というところでまとまらないと、お互いにケンカや派閥争いばかりしていることになる。

民主主義を真に理解すれば、「そこは同意できますね」、「それは私と考えが違いますね」ということを確認して、同意できるところで先に進めないかを考えることと私は思う。「人の意見が自分と違うという」ことは「自分が正しい」ということではない。むしろ民主主義は「違う意見を認める」というところにあると思うのだが。

(平成2784日)