民主主義はとても大切だ。社会を構成している人のできるだけ多くの人の考えを繁栄することができる。でもそれにはルールがある。言論の自由、表現の自由が守られていること、何かを発言したりしても社会的な不利を受けないこと、選挙など自分の意思を表現するチャンスがあることなどだが、それ以外でも、いったん、「十分な議論と意思の表明のチャンス」があれば、その後は「反対できない」という制限もある。
例を一つあげよう。
フランスで原発の是非を問う議論が行われる。原発推進派は「原発は安全だ」と言い、反対派は「心配だ」といって論戦し、投票する。その結果、70%が推進、30%が反対となるとする。そうすると、その後は反対派は反対しない。それが民主主義だ。
その代わり賛成派は反対派の意見を取り入る。少数派の意見尊重である。原発賛成派は「原発は安全だ」といったのだから、反対派が「それならパリのそばのセーヌ川のほとりに作れ」と言うと賛成派は自分が賛成したときに言ったことを守るから、パリに作る。
本当にそうなっている。
つまり民主主義とは議論をし、投票をしたらその後は反対できない。その代わり、投票前に言ったことを多数派は覆すことができない。その点、日本は原発にしても安保法令にしても民主主義ではない。
それに日本の場合は新聞やテレビが「ウソやウソに類すること」を言って混乱させるから、時間が十分あっても議論していないのと同じになる。原発も安保法制もそれがあるから国民は民主主義が行われているという感触もない。
私はこのブログでは日本の新聞やテレビに民主主義を壊されたくないので、安保法制もすでに反対できないと思うし、原発も再稼働は(極めて私の意思とは違うが)仕方が無いと思っている。「自分の見解より選挙結果」というのが民主主義だからだ。どんなに残念でも、どんなに科学的に異なっていても、民意は民意だ。
民意がマスメディアによって曲がっていても民意は民意だ。真実は常に言い続ける(たとえば1年1ミリとか原発が震度6で壊れるとか、さらには原発は津波が来なくても浸水で爆発するとか)が、それは「反対」から「お願い」に変わる。私はすでに原発反対で、少数派だから、「原発再開はやむを得ない(国民が賛成しているから)が、せめて1年1ミリを守り、耐震設計をし、浸水に強くしてくれと「願っている」。残念だが仕方が無い。
私は今でも被曝の危険性と、正確なデータの提供を続けるつもりだ。それは少数者でも、原発そのものに反対はできないが、条件をつけることができるからだ。
民主主義は難しい。
(平成27年7月28日)