昔は「獣」というと「人間より劣るもの」と言う使い方だったが、最近の人間の様子を見ていると獣の方が優れているような気もする。

それはともかく、人間が人間として尊厳を持っているのは、知性であり、それが獣と違うところだというのは間違いない。脳のビット数(情報量)にはいろいろな計算があるが、獣に比べて2桁、1013乗ビットとも言われる。

知性とは何であろうか? 対象を認識し、正しく理解し、判断する力であり、人格や上品さを決めるものでもある。もちろん人に対する愛情も野獣とは違い、奥ゆかしくもあり、憐憫の情を持ち、“もののあはれも分かる。

知性を持った判断や言動と正反対なのが「付和雷同」だろう。少年の集団非行は付和雷同によるものとされている。何も考えず、ただ大勢を頼むことだ。

最近の例で、日本社会が付和雷同し、今でも付和雷同しているのが原発事故で起きた様々なことだった。あるいは「絆」と言い、あるいは「黙れっ!」と叫び、さらには「数字を言っても県民は理解できない」とコメントした。

それを引き継いだのが、マスコミ、自治体だった。福島の汚染された農作物を食べなければならない(福島の農業議員)、汚染された食材でできた給食を食べることによって子供は事故を知ることができる(川崎市長)・・・考えられない言動が続き、それが「空気」となって付和雷同を呼んだ。

違法なことでもマスコミが空気を作ってしまえば、それで日本人が付和雷同する。そのうち、「放射性物質で汚染された瓦礫を引き取らない奴は日本人ではない」と言うことになった。まさに野蛮国で、自治体の首長は殿様ではない。行政職というのは国民から委託を受けて、国民同士の約束事である法律を守ることを「公僕」として雇われている人だ。

日本は原子力をやる上で、被曝から国民の健康を守る法律がある。もちろん、汚染された可能性のあるものは放射線量を測定しないと場所を移動するのも禁止される。

異常時で法律を無視しなければならない事態もありうるが、法律も言わず、異常時であることも言わず、ただ「絆」を言った。愛知県のある市は福島の汚染地帯の倉庫にあった花火を買って花火大会をした。私が「汚染をはかってから引き受けてください」と言うと、名古屋大学の原子力の教授は「何を言っているんだ! 倉庫に入っているのだから汚染されていないはずだ」と言い、市の担当者は「絆」と言った。

私から見ると野性の臭いがする。正々堂々としていない。原子力というのは技術も高度で、エネルギー密度も高く、事業としても収益性が高い。正々堂々と進め、もし万が一、間違いがあったら臆することなく頭をさげ、責任をとるべきだ。卑しい考えでは原子力はできない。

2011年の事故から丸4年。東電は海に大量の放射性ストロンチウムが流れていたこと、最初から知っていたことを発表した。原子炉の中にはセシウムとストロンチウムがほぼ同量、できて、揮発しやすいセシウムが大気中に、飛びにくいストロンチウムが水側に移行するのも初歩的な知識だ。

ただ、隠し続けていたのは知識ではなく、知性がなかったからだ。何かを買うときや列車に乗るときにキチンと列を乱さないこと、人に聞くときには丁寧な言葉を使うこと・・・どんな日常的なことでも、日本人は高い知性を感じられる民族だった。

まだ、回復はできる。現在の大人が一時的に知性を失っただけと私は思う。私たちは知性が輝く国に住みたいものである。それで初めて隣国の批判もできる。福島事故の後の隠蔽は、隣国の大型客船転覆事故のそれより質が悪かったと思う。

(平成2732日)