人間になぜ宗教が必要か?またはなぜ人間社会に宗教というものが生まれたのか?というと、まず人間は精神的に不安定なので、何か超自然的な存在に頼ることが必要だったからという理由と、さらには何かの規範がないと社会が不安定になるので偉人にある規範を作ってもらうという理由があるように思います。

人間の住む社会は、厳しい自然(たとえば砂漠)に囲まれ、あるいは自然に恵まれていても(日本など)不意の災害や病気に見舞われます。そんなときにその責任を抽象的な自然に求めても何か解決しないように思いますし、かといって起こった責任をすべて自分がかぶるのも心理的に苦しい場合が多いのです。

でもそれがすべて「神の思し召し」なら仕方がないことですし、まして「人間の祖先が悪いこと(原罪)を犯したので、それを償わなければならない」と言われると、それも我慢しなければならないことのように感じます。

また、社会に道徳が行き渡り、悪いことをする人がいなければ戒律や修行なども意味が薄れますが、大陸で多くの異民族が流入してきたり、乱暴な若い男性が勝手気ままに生活するような土地柄の場合は、何か偉い人の決めたことが必要です。

社会が平穏になるためにすべてを法律で決めることはできませんし、倫理や道徳のようなものが必要であることを多くの歴史的経験が示していることでもあります。でもたとえば日本のように「してはいけないことはしない」というきわめて厳しい道徳観が社会全体に行き渡っている場合は「宗教の戒律なくても社会の安定を保つことができる」と言うことなので、宗教の意味が失われるか、あるいは特定の宗教のもとでなくても、おおよそのことが決まっていれば快適で安心な社会を作ることができます。

特に日本の神道が教典もなく戒律もないのは次のような理由によると考えられます。

1) 日本は島国でほぼ単一民族、単一言語だったので、国民の思考が一様だった、

2) そのため、論理的に言葉を交わさなくても気持ちが通じるところがあった、

3) そんな風土の中で、多くの人が合意する「空気」を作り出すことができた、

4) 「空気」が戒律や法律の代わりをしたので、宗教的な戒律は不要だった。

つまり、日本では「神」の代わりに「風土と空気」が意味を持っていた。それを聖徳太子が、「神道を幹とし仏教を枝として伸ばし、儒教の礼節を茂らせて現実的繁栄を達成する」として確定したということでしょう。「神道を幹」、「仏教が枝」、「儒教が礼節」としたものですから、農業や正月は神道、お葬式や死後は仏教、武士道は儒教ということでさらに分業が確定しました。

それが1000年以上もつづき、一時、キリスト教の弾圧などはありましたが、おおむね多くの宗教を受け入れ、現在においてもなお、宗教的戒律や法律の上位にあるという特別な国なのです。

アメリカがイラクを攻撃したこともあって、日本はイスラム教徒どういうスタンスで接するのか迷っているように見えます。私の経験では、ある大学の管理を担当しているときに、大学内にイスラム教の礼拝所を作ろうと思って先生方にお話ししたことがありますが、特に異論はありませんでした。むしろ、多くの先生は「礼拝が必要なイスラム教の学生のために作りたい」と言われたことを思い出します。

もう一つはまた機会があったら詳しく整理をしたいのですが、ユダヤ教、仏教、ヒンズー教、キリスト教、イスラム教はいずれもアーリア人の原始的宗教からでてきたもので、日本語では「宗教」より「宗派」という感じがします。これについてはまた整理が必要です。

(平成2731日)