よく「権利と義務」と言いますが、権利だけ主張して義務をないがしろにする人がいます。普通はマスコミなどが「一般国民」のことや若者を非難するときに使うことが多いようです。学者やマスコミの人のように「権威と高い識見」のある人は「権利には義務を伴う」ということをよく知っていると思われているからです。

しかし、権利と行っても「職業選択の自由」のように国民全体が持っている権利と、私のような学者が普段から教授している「学問の自由」という権利とは少し違います。仕事をする権利は国民全体の権利ですから、それに伴う具体的な義務がない場合があります(「勤労の義務」は憲法で規定されています)。

ところが「学問の自由」というのは普通の権利ではなく、特定の人や特定の活動にしか与えられないので「特権」と呼べるものでしょう。普通の人が仕事をするときに、世の中の決まりや公序良俗とされているものに反する発言をしたり、行為をすると不利を受けることがあります。会社員なら「この会社をつぶすべきだ」ということをしばしば発言すると、それを理由に昇進が妨げられるのは当然でもあります。

それに対して学者は「学問の自由」がありますから、学問の範囲なら「現在の国家体制は不適切だ」という研究や論文が許されます。たとえば戦前の天皇制や軍部の時代に、「天皇制は不適切な制度だ」とか「軍隊を解散した方が平和が訪れる」という研究は許されませんでした。

そうなると「今の方法や制度、やり方、科学などがいつまでも続く」ことになり、人間の叡智、進歩の欲求、不都合の解消などの進歩がなされないので、日本国全体としては不適切だということで、近代国家では「学問の自由」が許されるようになったのです。

でも、学問の自由にも制限はあります。

1) 学問の体裁はとっているけれど、内容的には学問ではないので除く
(例:禁煙学会(タバコの影響を研究するなら学問だが、禁煙という方向性を持ったものは宗教か社会運動)、一頃の環境学会(政府の方針に従った環境だけを研究し、研究の方向も政府の方針通り))

2) 社会や人に直接、被害を与える研究や言動は除く
(例;安楽死を研究するのはOKだが、社会が安楽死を容認していない時に患者に安楽死を施す研究。地震予知ができないことが分かっているときに地震の予知を一般人を対象に発表して被害を与えた場合。火山の噴火が予知できないことを知っていて、「レベル1」を設定し「火口の付近を歩いても大丈夫」と言うことなど。)

学問の自由という特権に対して、学者がやらなければならない義務は「金儲け、名誉、世間体、空気、バッシングなどと一切関係なく、自らの学問に忠実であり、言動が誠実であること」でしょう。

だから、いわゆる御用学者に多くの人がなんとなく違和感を持つのは、偉い人なのに権利だけ求めて義務を果たさないからです。

私は御嶽山の噴火レベルをレベル1とした、噴火予知委員会長の東大教授は教授を辞任しなければならないと思います。噴火で大勢の方がなくなった後の記者会見で「噴火の学問とはこのぐらいのものだ。予知はできない」と言っていましたので、彼は「学問としての結論を地元の観光業などに配慮して、間違ったことを言った」と言うことになります。

学問の自由という特権を社会が認めているのは、「学者は正直である」と言うことを前提にして社会が本当のことを知りたいからです。だから、学者ならレベル1を決めて表示するときに、「学問的には噴火の予知はできません。ただし、観光業などの要請があり、レベル1としました。これは学問的な表示ではありません」と正直に言わなければならないのです。

私の経験では、学問的なことをそのまま学問上の結論に忠実に言うと、バッシングをうけます。それは「みんなが心を合わせてやっているのに」などの理由ですが、学者はみんなが心を合わせてやっていることを配慮してはいけないと思います。

先日、複数のテレビ局で「学問的には効果があるかわからない。学問としては害がある可能性がある」というものを「流行しているから」という理由で番組内でやったとき、黙っていました。本当に困りました。

でも学者が正直だからという前提で、社会は学者に学問の自由という特権を与えているので、もしそこで社会に配慮するなら、学問の自由を捨てなければならない、つまり権利だけもらって義務を果たさない学者ということになるでしょう。

日本でテレビや審議会で活躍している学者のほとんどは「学者ではない」ので学問の自由を放棄するべきです。

(平成2732日)