この「他を愛する心」というシリーズは、今、私たちが健康でいたいとか、長寿とか、さらには認知症になりたくないとおもっていて、それには「自分の生活や生き方、ストレスを改善しよう」としていますが、それは違うのではないか、私たちが健康だったり、幸福になるのは、自分が健康に注意するからではなく、あたしたちの愛が他に向かっている時ではないかと思うからです。

それを単に感覚的ではなく、しっかりとした根拠のある論理を作って、普遍化しようとしているのがこのシリーズです。これまでの3回はやや卑近なことから始めたのですが、ここから少し科学的な内容にはいります。

人間が「利己的」な生物であるか、それとも「利他的」であるかという問題を科学的にはっきりさせたのが、生物の進化を研究して「進化論」を著したダーウィンと、それから100年ぐらいたって、生命の元を明らかにしたDNAの解明者ワトソンとクリック、そして、きわめて明確に進化の内容を整理した「利己的な遺伝子」のドーキンスでした。

まずダーウィンが「自然淘汰」、つまりより強い方が勝つという原理によって生物が進化してきたことを示し、それをフリースという学者がオオマツヨイグサの突然変異の研究で進化の具体的な方法を示しました。つまり、生物は生活しているうちに突然変異をおこし、まれにその中で選りすぐれた性質を持つ突然変異をした生物が残る・・・これを繰り返してアメーバのような生物から人間まで進化してきたという理論です。

この進化論は、ワトソンとクリックのDNAの構造解析で、命とはどういうものか、生物の形がどうやって決まるかがわかり、さらに、放射線などを浴びてDNAに変化が起こり、その変化がより強くなる方向の場合に新しい生物が競争に勝って進化が進むという、それまでの突然変異という現象論に加えて具体的な化学的内容も解明されました。

DNAの構造解明とその影響の研究で、生命の誕生や生物の進化はこれでほぼ完璧に説明できるように見えたのです。事実、イギリスにドーキンスという学者が現れ、鋭い観察眼で「利己的な遺伝子」という大著を著し、それによって生物そのものとその進化はすべて明らかになったと考えられました。

「利己的遺伝子」という書籍は大著ではありますが、とても面白いものです。

ドーキンスはイギリスの大学の先生で、学生と飲みながら議論するのが好きで、その議論の中から総合的な考え方がまとまったと言われています。おどろくことに、「生物はその体の中にある遺伝子の乗り物に過ぎない。すべては遺伝子によって操られている」というのですからびっくりします。

たとえば、私は一人の人間のように思っています。でもドーキンスに言わせれば、本当は一人の人間でも何でもなく、私の体の中にある遺伝子が「生き残って次に子孫を残すために作った乗り物」に過ぎないというのです。私の親の体が劣化しないうちに私を産み、そのときに遺伝子は親の体から私の体へと移動する。私を産んだときの親の体はかなり劣化しているので、その命がつきると遺伝子も死んでしまうので、安全を期して親が40歳ぐらいまでに乗り移ってしった、単にそれだけというのです。

そして、私の体に乗り移った遺伝子は、まず私が成長すること、そして適当な時期に女性が好きになって子供を作ることを計画します。私は単に女性を見るとムラムラとくるとしかわからないのですが、それは私の中の遺伝子がそうさせているのです。

つまり、人間は40歳ぐらいまではまあ安心ですから、遺伝子は悠々と計画を練ります。ます若いうちは勉強させ、運動して体を鍛えさせ、そして女性が好きにならせと順序通りさせる、すべて遺伝子の策略である・・これがドーキンスの考えです。

おいしい料理、快適なスポーツ、愛する彼女、すべては遺伝子のダマシなのですから、利己的遺伝子を知ってしまうとむなしい気持ちもしますし、どうせ自分の体の中のエイリアンが指令しているだけだ、それに反することもできないのだから、いっそ、遺伝子の指令通り、快感を味わった方がよいと自暴自棄にもなります。

ダーウィン、フリース、ワトソンとクリック、そしてドーキンスと続いた「自分の遺伝子のために生きている。だから人間の本質は利己的だ」という完璧な考えと、事実、アメーバ、三葉虫、恐竜、そして人間と順序よく進化してきた生物の歴史から、この理論は完璧のように思われてきました。

でも、どうやら間違っていたのです。

(平成27223日)