かつて「石炭を焚かなくても水の流れを利用して電気を作ることができる」といって日本でも盛んにダムと水力発電所が作られたことがありました。私の小さい頃、ダムは日本の発展の象徴でしたし、水力発電所は自然と調和した環境によいものとして大いにもてはやされたものでした。

たとえば静岡県の佐久間ダム、富山県の黒部ダムなどは、戦後の復興とともに電気の需要が高まった頃、本当に救世主のようなものだったのです。そして豪快に放水されるダム、日本の自然と見事に調和している人工湖、電気、農業用水、洪水防止、観光など何をとってもダムと水力発電所は「よい子」のように思われたのです。

ダムを建設するときには付近の住民を集めて公聴会を開きます。たとえば黒部ダムの場合は、ダムを造っても近くの住民にメリットがあるわけでもなく、関西電力はダムで作られた電気を金沢の方に送るのですから、近くの人から見ればダムだけができるということでもあるからです。

そこで電力会社は、国の発展のため、洪水がなくなる、観光産業が興るといろいろなメリットを強調して地元の賛成を得るということをしていました。

でも、私は15年ほど前の本に「公聴会には魚のお母さんを呼ばなければならない」、「魚のお母さんは「私には育ち盛りの子供が2匹います。もしダムができたら水が涸れて子供たちは死んでしまいます。人間はテレビを見ることができるようになるからよいのでしょうが、私たち親子の生死がかかっているのです」と訴えるでしょう」と書きました。

ダムと水力発電所は人間にとっては電気が増え、観光もできるのでよいことですが、川という自然は人間のためだけにあるのではありません。太陽の光が海水面を照らし、水が蒸発し、それが上空で雲となり、風で流されて山にぶつかり、雨を降らせ、それが川となって流れます。

エネルギーで言えば、太陽のエネルギーが水のポテンシャルエネルギーになり、さらに川の運動エネルギーに転換されるということになります。そのエネルギー、元々は太陽の光ですが、それを利用しているのが魚であり、河畔の樹木であり、川を転がる小石でもあります。鳥がさえずるのも、平野ができるのも、すべて太陽のエネルギーが変わったもので、それを自然は余すところなく使っているのです。

人間から見ると川は無駄に流れているように思いますが、自然は結構、節約家なので、川のエネルギーはとことん利用されています。そこに人間が割り込むのですから、人間が電気を横取りする分だけ自然は痛みます。

それが明らかになってきたのはダムを造ってから20年ほどたったときでした。日本ではダムの下流の自然が破壊され、ダムには砂がたまってあれほど苦労して作ったダムも短い寿命であることがわかってきました。エジプトでは世界の注目を浴びたアスワンダム、アスワンハイダムの影響でナイル川と地中海のエネルーバランスが崩れて6000年も続いてきたナイルデルタの農業が壊滅しました。

そこでやっと人間はダムを造るというのは人間の都合だけだったことに気がつきます。私が15年ほど前に書いた本に「風力発電は自然を破壊する」という一節があり、当時、社会から「そんな馬鹿なことはない。風から電気をとっても風は変わらない」というばからしいバッシングを受けたものです。

当時のフジテレビのキャスターが地上波を使って一介の学者だった私を「売名のためだ」とテレビで批判しているのを聞いたのもその頃でした。でも、風もまた太陽エネルギーの変形で、風が吹くから樹木の葉から水分が蒸発し、地面が乾き、花粉が飛び、鳥が舞うことができるのです。そして風から電気になるエネルギーをとれば「エネルギー保存則」で風は弱まり、樹木は枯れ、地面は湿気るのです。

ここでは二つの例を挙げましたが、私たちは頭でっかちになり、それも中途半端な頭脳の理解と判断で、自分によいことを「自然や他の生物も同時にメリットがある」ととんでもないことを考えるようになったのです。それはおそらく人間の本来の心とは違うので、頭脳で考えた利己的判断と、人間という命が感じる利他的な判断のずれが、現代人の最大のストレスになっているのでしょう。

(平成27220日)