日本人がイスラム教は「普通の宗教~仏教、キリスト教など」と違って感じるのは「イスラム教というと、なにか国家と関係がある」というのも原因になっています。

アメリカやドイツなどはキリスト教が多い国、タイや日本は仏教が主な宗教ということは感じますが、国の政治の中心は宗教とは切り離された大統領、首相、国王などで進められていて、宗教の指導者は登場してきません。

ところがイスラム教徒が多い国では、イスラム教の指導者、たとえばイランのホメイニ師などが登場して、なにか宗教指導者が首相より力を持っているような感じがします。でも、これはイスラム教が強いからというのではなく、また「政教分離」出ないからというのも少し違い、イスラム教の教えが他の宗教の教えと違うというところから来ています。

キリスト教でも仏教でも、僧侶のような中間管理職が教団を作り、そこで宗教体験、宗教行事をしています。僧侶は「神にかわって宗教上の資格や癒やしなどを施すことができる」という権限を持っているので、指導団体を作ることができます。

ところが、イスラム教は「アッラー(神ということ)」と「信者(ムスリム=帰依する人)」だけですから、ムハンマド(マホメット)もホメイニ師も教祖でも僧侶でもありません。ムハンマドは神が預言を託す相手に選んだとんでもなく偉い人、ホメイニ師はイスラム教の学者であって聖職者ではありません。

また、イスラム教は「原罪」のようなものは認めずに、僧侶もいないので、信者全員が在野の人ですので、商売、結婚などを普通にします。そうすると、人間はお金や男女のことで諍いが多いので、イスラム教は、商売のやり方や男女の関係を事細かに決めています。

この点ではイスラム教が他の宗教より上かもしれません。つまり、他の宗教は、本来、人生で問題が起こる商売や男女のことを避けて、それは「汚らわしいこと」として神に仕える中間管理職はタッチしません。つまり、「教えから商売や男女を除く」ということになるので、ある意味では人生の指針となる宗教の教えとしては「肝腎なことを避けて、当たり障りのないことだけ言っている」と言うことにもなります。

ところが、「宗教と国家」というのはキリスト教的でも、イスラム教的でも、いざこざが起こります。国家には憲法、刑法、民法、商法、軽犯罪法などがあり、国民がしてはいけないことを決めます。宗教も同じですから、イエス・キリストは「神のことは神に、皇帝のことは皇帝に」と政教分離を教えましたが、現実にキリスト教がローマ帝国に進出した時には最初は厳しい弾圧にあい、お互いに妥協して最終的にはキリスト教がローマの国教になりました。

それでも、キリスト教、仏教などの教団を持っているところは、市民生活では国の法律に、宗教生活は教団の中でということができるのですが、イスラム教のように「神と個人」の関係だけでは「国」を位置づけるのが難しくなります。

ムスリム(イスラム教の信者)が集まって国を作るとすると、国の法律をイスラムの教えと合わせておかないとうまくいきません。しかも、イスラム教では商売、男女など法律で定めること(人間が間違いを起こしそうなこと)を宗教的に定めていますから、なおさら国と宗教が一緒になりがちです。

イスラム教の最初の布教過程では、カリフと呼ばれる宗教上の指導者が王になることもあり、また後のスルターンと呼ぶいわば皇帝が出現しますが、これもキリスト教と逆の感じではあるが、政治と宗教の妥協ともいえます。

いずれにしても教団がなく、日常生活が宗教生活と一致しているイスラム教の場合は、私たちのように宗教生活が世間から切り離されている社会から見るといやに宗教色の強い社会のように見えますが、ことの表裏の関係にあります。

でも、イスラム国では常に宗教優位かといえばそうでもなく、イスラム教徒が圧倒的に多いトルコがいち早く「政教分離」(日本で考える政教分離はあまりに硬直的ですが)を達成した国ですし、インドネシアも政教分離に苦しんだ国です。次回に少し触れます。

(平成27219日)