このシリーズの第一回にイスラム教には「僧侶も寺院もない。中間管理職はいない」ということを示した。アッラーの神と一人の人間は直接、コーランを通じてつながっていて、その間に入る人や物はない。たとえカリフ(イスラム教の国の王様)であっても一庶民であっても神の前では同じである。

こんなことは普通のことと思うけれど、実際には大きな違いができる。キリスト教でも仏教でも神父さんやお坊さんは世間の人と違う生活をする。斎戒沐浴、身を清め、特別な衣装を身にまとい、普通は妻帯せず、肉食を慎み、金銭に関わる仕事はしない、そして修行生活をする・・・そんなイメージだ。

これに対して、イスラム教では「神」と「普通の人」だから、普通の人が普通にすることは全て認めなければならない。たとえばセックスだが、普通の人がセックスをしてはいけないということになると子供が生れず人類は直ちに絶滅する。だから、お坊さんがいるキリスト教や仏教では、「お坊さんだけは汚れたセックスをせずに身をきれいにしておく」ということだが、イスラム教では全員がある意味ではお坊さんだから、セックスは「正常な人間の行為」ということになる。

金銭の仕事もそうだ。他の宗教では金銭を表に出さないが、イスラム教は生活をする人だけしかいないので、「金銭と性」は教えの中に入る。つまり「人間そのものとその生活を認める」ということと「僧侶がいない」ということは直結し、従って、キリスト教の「原罪」という考えもないし、仏教のように深遠な教えや行動も求められない。

神と自分だけだからコーランを読み、シャリーアと呼ばれる日常生活の規範を守ることだけだ。たとえば礼拝(サラー)、ラマダーンの断食(サウム)を行うことと、一生に一度、聖地メッカに巡礼すること、また姦淫や飲酒が禁止されている。これらはアッラーが求めたり、禁止したりしているので、自分で判断せず、そのまま守るという考えです。

僧侶のような中間管理職がいないだけで、「本来人間が行うことは禁止しない」というごく普通のことが行われるので、私のような科学者にもなっとくできる感じです。ただ、私たちは中間管理職のいる神道、仏教、キリスト教に馴染んでいるので、普通の人が一所懸命、祈ったり、断食したりするのに違和感を覚える。お坊さんが座禅を組んだり、断食したりするのは「普通のこと」だが、私たちは宗教的な戒律などは関係がないと思っているからだ。

でも、考えてみると自分が信じているのに、その教えの戒律などやらずに僧侶に任せておくというのも変な話で、必要なものは信者としてやらなければならないし、また中間管理職はとかく利権化して腐敗するので、そんなものは神の前ではいらないような気がする。

ここまで、イスラム教を持ち上げて、仏教、キリスト教をすこし批判的に見たが、このところテロなどがあって、イスラム教に対して「知識を得ずに奇妙な団体のように見る」という人が多いので、ややイスラム教側にたって整理をした。

私がものを見るときには、自分の考えの反対から見て、整理をし、そしてもう一回、自分の見方で考えるという2段構えをする。そのほうが先入観が少なくなりより正しくものを見ることが出来る気がする。

(平成27215日)