鎖国状態から国を開き、多くの人が世界に旅たってさまざまなことを勉強して帰り、そして日本の学問体系を作ったとき、もし歴史学がアーリア人の挙動に注目した大きな世界史の流れを整理して日本国民に教えてくれたら、戦争はなかったかも知れない。

当時の「欧米列強」の実態とはなんだったのか? 欧米に追いつかなければならないと多くの人が思い、大鳥圭介は東大を作るときの演説で、「圧倒的な人口を有しているアジア諸国がヨーロッパに牛耳られているのは産業、科学、軍事の力の差だ」と言って東大を作ることに大切さを説いた。

日本はその最初の時に「欧米と同じく、植民地を持つ強国」にならなければと思って東大を作り、産業を発展させたのだった。「ヨーロッパ列強と同じようになろう」とおもった大鳥圭介を非難することはできないだろう。戦後の日本も「アメリカと同じ大量生産、大量消費が良い」として高度成長を遂げたぐらいである。

しかし、ややこしいのは日本人の反省グセで、反日日本人は「欧米の侵略は侵略と呼ばず、日本の進出を侵略と呼ぶ」という定義を行っているが、これは「教えてくれた先生の行為は同じ行為でも正しいとして、生徒の行為は先生と同じでも悪く思う」という癖が出ているだけと思う。

これも現代と似ていて、「大量生産、大量消費」は「悪」と日本人は決めつけて、「温暖化防止」に一所懸命になっているけれど、「温暖化の危機」を世界に訴えたアメリカが25年間なにも対策を取っていないことは問題にしない。アーリア人は悪いことをしても良いことで、自分たち非アーリアは常に善人でなければならないという絶対的な価値観を持っているようだ。

ところで、アーリア人にとって、中国が白人側について利権を無造作にくれている中で、世界でたった一つの非アーリア系独立国・日本の存在は許せなかった。アーリア人の正義感とは、「正義を自分で決める」か、「正義を聖書に聞く」ということだからだ。

16世紀、大侵略が続く中、スペインのサラマンカ大学のヴィトリア教授は「彼ら未開人は人間の法によって「臣下」ではないので、彼らの事柄を判断するのは、人間が制定する法の諸規程によってではなく、神のそれによってだけである」としている。つまり侵略の正当化は聖書によるということだ。

アーリア人の理論は常に自己の正当化であるから、「不正を糺す戦争は正しい。そしてその不正は自分が不正と判断すればよい」ということで、この考えはイラク戦争や現在のイスラム国への空爆などにも応用されている。

つまり、中世までのキリスト教を中心とした戦争論やカントの永遠平和論など、ヨーロッパでは多くの戦争論の正義論が展開され、日本でもその紹介が数限りなく行われている。ただ、そのほとんどが「ヨーロッパの戦争論を理解し、解説すると疲れてそれ以上は進んでいない」という状態である。

NHKが大々的に放送した「正義の話をしよう」というハーバード大学の講義も、「アーリア人の正義」を普遍的正義とするというものだった。

日本が満州国を建国しようとしたとき、もし日本に「世界史」があり、「世界で日本以外の国はアーリア支配である」ということが明確であり、かつ非アーリアで中国が唯一、アーリア人側についているということがわかっていれば、満州国の建国が世界の非難を浴びるだろうという議論になっていたと考えられる。

松岡外相がその英語力を使っていかに優れた演説をしても、アーリア人の世界支配を目的としている国際連盟は受け入れないし、中国はアーリア側についているので、唯一の非アーリア国も反日の言動をするだろうからである。

私は第二次世界大戦を、アーリア人同士の内輪もめ(アメリカ、ソ連、イギリスとドイツ、イタリア)という内容と、唯一の非アーリア国家としての日本つぶしとの両方を含んでいたのにもかかわらず、「連合国と枢軸国」という現実とは違う観念的な対立関係を歴史で教えられた。

実際には枢軸側はなんら有効な連帯をしないで戦争に臨んでいる。ドイツの作戦について日本はまったく知らないまま進んだし、日本もロシアへの侵攻、イギリスの植民地であるインドへの進駐などの決定的連帯行動を取らず、アメリカがドイツとの参戦のために日本を挑発するというのに任せたのだった。

世界史を知ることは現代の日本でも必要である。その中でピカリと光るのはただ一つ、山下大将のシンガポール陥落だった。

(平成27130日)