日本は左翼、右翼といわれるように、思想的に「左」か「右」に所属していることを求められる。そして不思議なことに「左」となると、政治的な課題から日常生活まで「左」の言動を求められる。

もちろん、「左」とレッテルを貼られると、平和憲法を守れ! 夫婦別姓賛成! 原発再開反対! リサイクルを進めろ! 日本は侵略戦争をした! 大企業は悪だ! と言わなければならない。なにかムードで左の考えは左で統一していなければならないとされる。

「右」となると、軍国主義、日本の伝統尊重、日本式家庭を守れ、原発賛成、再軍備賛成、神社尊重、批判的な発言禁止、と決まっている。それに反すると右のグループから追い出される。事実、私は原発反対で右のグループからすべて追い出され、発信の機会もなくなった。

わたしは、日本の伝統に誇りを持ち、日本を守る必要がある。リサイクルなど理屈に合わないものは日本のためにならない。日本は侵略戦争をしていない。でも、原発再開反対、平和憲法の精神を守れ、とくるから「お前はむちゃくちゃだ」と言われる。

「なぜ、ムチャクチャなのですか?」と聞くと、右翼なら原発は賛成しなければならない、右翼なら平和憲法思想に反対のはずだ、反日日本人でなければ平和思想を持ってはいけないとくる。「なぜですか?」とさらに聞くと、「考えてはいけない。左翼の人はなにから何かで左翼が言っていることに反してはいけない。自分なりに一つ一つ考えるなど、とんでもないことだ」という。

とにかく、まず「全員が一致しているのが良い。違う考えのものは排斥しろ」というのが第一で、次に、「全員が一致しなければ、左か右に別れろ。そして自分の考えを持つな」というのが第二だ。いずれにしても、「みんな一緒」を求める。そうでないとその人を評価することはできないというのだ。

民主主義というのはひとりひとりの人がその人の歴史観、人生観で自分で考えて自分自身の考えをもつことを認める、というかそれが前提だ。いつか書きたいと思っているが、私は、被曝は健康に良くない、タバコは悪くない、「減塩食が健康に良い」というのは間違っている、ダイオキシンは無毒だ、植物油は危険なものが多い、石鹸と洗剤は同じだ、・・・など「一般的に言われている事と違う」判断をしているが、それは「個別のものと健康に関するデータをじっくり、自分で論文を読むとそうなる」ということを言っている。誰がなにを言っているとか、日本人はみんなどういっているというのとは違う。

「みんなが言っているから」とか、「左の思想とはこういうものだ」というものこそ、社会を停滞させ、頭を働かせず、思い込んでいることを示しているのではないか。そしてそれを理由にバッシングしてくるというのも奇妙だ。

それに加えて、今度のシリアの悲劇で見るように、「おれの考えていることは正しい。だから不正なものはやっつける」という「正義尊重」が危険なのだ。日本でも「右」、「左」の硬直化した思想で、この問題を論じ、日本が戦争の道に進まないようにしたい。

(平成2722日)