ヨーロッパの「大侵略時代」は、もともとヨーロッパの史観で「大発見時代」と呼ばれていたが、増田善郎先生がヨーロッパ史観ではいけないというので「大航海時代」という名前をつけた。でもこれも遠慮がちだった。

時代は1415年からとされるが、一般的にはディアスが喜望峰までいった1488年とされている。いずれにしてもアーリア人が全世界を侵略しようとし始めた時期である。

まずポルトガルのディアス、ガマがインド航路を開き、アフリカ、インドへの進出を果たす。それと同時にスペインは西へ航路を開き、アメリカ大陸を発見した。それからポルトガルはアジアで、スペインはアメリカで暴虐の限りを尽くす。その一例、アステカ王国の様子を表紙に載せたが、虐殺に次ぐ虐殺で、アステカ王国もインカ帝国も滅びた。

そのうち、内輪揉めが起こりローマ法王が「世界をポルトガルとスペインで分割する」というフザけたトルデシリャス条約を結ぶ。その後、オランダ、イギリスが世界の海に進出し、さらにかなり遅れてではあるが、フランス、ドイツなどが参加した。そして、1885年にはベルリンで「アフリカ分割会議」を行うに至る。

アメリカ大陸に住んでいた住民のうち、現在のアメリカ合衆国の通称、アメリカ・インディアンは600万人が殺害され、アステカ王国も完全になくなり、さらに南アフリカのインカ帝国も民族ごと地上から消えてしまった。

普通の侵略というのは、外国がその国を占領して植民地などにすることをいうのだが、スペインやイギリス人(後のアメリカ人)によるアメリカ大陸の侵略は「皆殺し」だった。ひとことで侵略と言っても、第一に「皆殺し侵略」、第二に「完全に自国に取り込む侵略」、第三に「植民地にする侵略」、そして最後に「対等合併あるいは属国」があり、第一から第三までが主としてアーリア人の侵略の仕方であり、第四がその他の民族が行う侵略である。

皆殺し侵略はアメリカ大陸だけではなく、イギリスが侵略したオーストラリアやタスマニアにはすでにそこに住んでいた住民はほとんどいない。皆殺し侵略だったが、さらに殺し方が残虐で、岩の上に女性を追い上げ、下から銃を撃って岩の片方に追い詰めて落とし、死ぬのを見て喜ぶというやり方であった。事実、タスマニアの住民はひとり残らず殺された。また、ポルトガルはニューギニア方面で「街を歩いている女性はだれでも犯して良い」というお触れを出していた。

ヨーロッパに少し遅れてアーリア人の一派であるスラブ民族(ロシア)も動き出し、遠くモスコーから東へ東へと移動してモンゴル高原やシベリアを占領しつつ太平洋に達する。ロシアが太平洋岸に作ったウラジオストックという意味は「東方の支配」であり、侵略は当然だ、俺たちは偉いのだから、支配するのは当たり前という考えが露骨に示されている。

かくして、アーリア人の第二次大侵略によって、ヨーロッパ、ロシア、中東、中央アジア、インドの北方はもともとアーリア人だったが、さらに北メリカ、中央アメリカ、南アメリカ、アフリカ全土、東南アジア、ハワイ、アラスカがアーリア人の支配下に入ったのであった。

これは驚くべきことで、日本で教えられる世界史とは大きく違う。世界史でいう「大航海時代」とは、実はロシアの東進などを含めて「第二次アーリア人の大移動」であり、それは「虐殺を伴う激しい侵略」だったのである。

(平成27126日)