日本俗語辞典でネットに掲載されているのを見ると、「うざいとは『うざったい』の略で、「鬱陶しい」「わずらわしい」「うるさい」「面倒臭い」「気持ち悪い」「邪魔」といった意味を持つ。

うざいは1980年代のツッパリブームから関東圏を中心に使われるようになり、1990年代には不良以外にも使われ、全国的に普及する。うざいが更に簡略化された『うざ』や、うざいの語感が荒くなった『うぜー(うぜえ)』という言い方もある。

2006年、学生の相次ぐ自殺が社会問題となるが、うざいと言われたことが原因になったり、うざいの一言が発端で殺傷事件になるほど荒い言葉なので使用には注意が必要である。」とある。

そしてウザイに関係する絵として表紙に出したような「さっさと消えろ」、「もう、疲れた」に代表される無気力な若者、慢性疲労気味の人などの社会からの逃避現象の一つと考えられる。

私の感じでは「うざい」が単に若者や無気力な人たちの気持ちを代弁するだけではなく、日本社会全体に蔓延し始めたのは、1989年の宇野内閣あたりからではないかと思う。それまでの内閣も短命だったり、問題はあったが、それでも政治家を感じさせる人物が首相になっていた。

しかし、宇野宗佑首相は三つ指問題(女性問題)、海部内閣、宮沢内閣、途中で政権を投げ出した細川内閣、羽田内閣、社会党と自民党が連立するという村山内閣、橋本内閣、急死した小渕内閣、サメの頭と揶揄された森内閣と続いた。

政治はやはり国の根幹であり、その社会に大きな影響を与える。奇妙な性格を持った内閣が奇妙は政策を出してくるので、いちいち考えたくない、何事も「うざい」という雰囲気が漂った。

小泉内閣で一段落したとおもった日本社会は、さらに腹痛で退陣した安倍内閣、わけのわからないコメントを残した福田首相、それに失言続きの麻生内閣のあと、民主党政権では、鳩山、菅、(次の首相)と続いた民主党政権で再び国民は「何も考えたくない」という状態に追い込まれた。

もちろん、政権の乱れは政策のゆらぎにもなる。その典型が「ゆとりの教育」だろう。戦後、かなりの年月が経って、日本も「個性の時代」になった。だからこれまでの詰め込み教育から個性を生かすゆとりの教育へ移ろうということになり、政界、教育界、経済界、マスコミ、知識人が一体となって「全員賛成型」でゆとりの教育に移った。ところがはじめてみると先生も慣れていない、成績が上がらない、生徒の態度が悪くなるなどが目立ち、数年で元に戻った。

「ゆとりの教育で学力が下がった」と最初に目的としたことが達成された(学力が下がるが多様性が大切というのが目的)ことを自ら非難するというきわめて非論理的な世論が巻き上がったのである。それに政界、教育界、経済界、マスコミ、知識人が全員賛成したのも鼻白むことでもあった。

このようなことが続いたら、「考えるのはうざい」ということになるだろうし、考えようという人たちに対して「うざい」と言いたくなるし、さらに「オレオレ詐欺」も増えるのが当然のように思える。

一人ひとりが目前のことをよく考え、将来を見通し、議論し、そして子供たちのために繁栄した日本を渡すためには、私たちは決して精神が劣化したことば、気力のない状態を表す「うざい」がでる社会から決別しなければならない。

(平成27122日)