日本は先進国の中で珍しく、もしくは唯一の「文科系」と「理科系」が分かれている国です。学問というのは特に区別はなく、学問の分野によって「対象」が違うということです。

「理学」は自然現象、「工学」は自然現象を利用した作品、「経済」は人間社会のお金の現象を取り扱います。いずれも「学問の対象」を冷静に、綿密に観測し、その観測結果を解析し、理論をたてて体系化していきます。「数学を使うのが理科系」でもありません。経済学も心理学も多くの数式を使います。

日本でいう「文科系」というのは「数学ができない人でもできる学問」と言っても良いですし文科系に有利に言えば、語学ができる人に向いている学問とも言えます。

それでは「歴史」というのはどちらの学問でしょうか? 現在は文科系に属していますが、なぜ文科系なのでしょうか? 人間という生物を他の生物と同じような「生物」として捉えれば、その活動記録(歴史)はまさに理科系です。私がもともと文科系、理科系の区別は学問としては無意味で、大学受験の区分と思っているので、なぜ歴史が「文科系」なのかということに対して回答することができないのですが、おそらく「歴史の中で「人の気持ち」を重要視する場合、歴史は文化系に属する」、「自動翻訳機がないときに古文書を解明しなければならないから」という理由のような気がします。

もともと学問は「研究の対象」があり、それを「整理」し、「論理的に組み立てる」という作業ですから、歴史を理科系の人がやっても文科系の人がしてもなにも問題がないように思います。

ところで、私がここにこれを書いたのは、「武田がなんで歴史を書くのか」とのバッシングが常にあるからです。私ばかりではなく、日本では学問が最初から発達した例がないので、「専門」を過度に強調します。これはSTAP事件の時もそうでしたが、「再現性」などは学問がかなり成熟しないとできませんが、日本の学問が欧米に基礎を置き、悪く言えば「重箱の隅をつついている学者」が多いことにもよります。

このブログにも連載していく予定ですが、「持続性」という研究課題も、欧米が「持続性の崩壊」と言うと、「崩壊するのかどうか」という基本的なことは日本では考えられず、「欧米が持続性は崩壊するというから、どうしたら崩壊しないようにできるか? 節約だ」というようになるのです。

学問の心はもっと自由で、その人が理科系か文科系か、欧米が主張しているかどうかなどより、もっと対象物に対して興味があり、「人」ではなく「書いてあるもの、言っていること」などに注目して、それを整理したり批判したりするべきでしょう。

原発事故のあと、「11ミリ」の規制があるかどうかに議論が行かずに「武田はおかしい奴だ」という人に対するバッシングの方向に行きましたし、STAPでも万能性をもった細胞が外部刺激で万能性を持つ条件ということには興味が行かず、若い女性をバッシングするのに懸命になったように思うのです。

日本の文化がさらに進むためには、「その人・・・誰々だ」というより「学問的成果」に注目する日が来ることを期待しています。

(平成27116日)