テロが繰り返されている。そして「テロを撲滅しろ!」という声が高い。でも、それは正しいだろうか? 

イソップの物語に「北風と太陽」という話があり、旅人があまりの寒さにコートの襟を立てて歩いている。そのコートを脱がせようと北風が猛烈に風を吹かせたら、旅人はますますコートを離さない。ところが太陽がポカポカと旅人を照らすと旅人はコートを脱ぐ。

なんでも物事には原因がある。原因があるのに、それをさらに大きくする方向では抜本的な解決にならず、原因を取り除くことが大切ということを教えていて、これはほとんどすべての人が賛同する。

なぜテロが耐えないのだろうか? 本人も自分の命を捨てるのだから、それなりの強い理由がある。今回のテロの場合、その理由と原因は次のようなものだろう。

1)    自分が大切にしている人やもの、尊敬している、愛している人などを侮辱すること・・・表現の自由は大切だと言われている。

2)    植民地にし、利権を奪い、宗主国に頼らざるをえないシステムを作り、隷属関係を固定する・・・国家の暴力は良いが、個人はダメという。

3)    自分が正しいと思うことが正しい。

今回は1)、2)ではなく、3)について整理をしてみる。私たちの日本には「表現の自由」という概念はなかった。その代わりに「人を傷つけずに」とか、「何を言っても良いけれど、誠意が大切」としたりしていた。どちらの社会もそれほど悪い社会ではなく、お互いにお互いの文化を尊重することと、できれば少しずつ違う文化を受け入れてより良い文化を作り出していくというのが、どちらの社会にも必要な共通の「善」だろう。

ヨーロッパ流の「表現の自由」という概念は、ヨーロッパの文化、政治体制などから生まれてきたもので、他の民族、他の文化にそのまま適応できるものでもなく、もちろん「ヨーロッパのことは無批判に正しいとできる」という原理原則もない。

日本は世界でも希なぐらい「他国の風習を否定しない」という国だ。宗教でも文化でも、また政治体制でも、自分たち(日本人)が「良い」と思ったら取り入れる。でも、ヨーロッパの人たちは他の民族を支配していた時期が長いので、すぐ「自分たちが正しい。お前は間違っている」という。アメリカがその典型で、世界の警察官と呼ばれるが、よく見ているとそれは「アメリカが得をする」というだけのことだ。

国家間の争いでも、個人の諍いでも、戦争や諍いの原因はつねに「俺が正しい」ということだ。今回もフランスに日本文化があって「他人が尊敬している人は、失礼にあたり、礼儀に反するので、侮辱しない」という考えが少しでもあったら、事件そのものが起こらないだろう。

私はヨーロッパ流の表現の自由が無批判に「正しい」とは思わないし、「正しい」ということ自体をすこし後退させ、地球上の人には「誰でも正しいと思うことがある」をいう基準を日本が世界に広めることが良いと思う。

(平成27112日)