人とうまくいかない原理をサラリーマンを念頭に置いて二つ書いた。一つがテニスの原理、もう一つが三角形の原理だ。いずれもサラリーマンだけではないが、特に会社の場合、この二つの原理はよくよく肝に銘じておくと明るい人生を送ることができる。

さて、三番目にこれはサラリーマンだけではなく、「正しい夫婦」でも書いたように、万能薬のようなものだが、「自分が正しい・原理」である。人は自分が正しいと思うことを言い、自分が正しいと思うように行動する。「間違っている」と思っているのにそのまま行動するのはかなりの勇気と熟練がいる。

私が「自分が間違っていると思うことに、自分が全力を注ぐことができる」という「技(わざ)」を付けることができたのは40歳ぐらいだった。「自分が正しいと思うことが正しいわけではない」ということ、さらには「自分が正しいと思うことは、ほぼ間違っている」と心の底から思うことができるようになってからだ。

また、会社のような組織では、「真の正しさ」を日常的に決めることはできないので、「役割としての仮の正しさ」で日頃の運用をするというシステムを作った。これは素晴らしいもので、「上司が正しくなくても(間違っていると部下が思っても)、魂を屈する(議論に負ける)ことなく、上司の指示に従って行動することができる」といういわば「免罪符」を与えられたようなものだからだ。

私は大学教授だが、実は学生の答案の採点をする勇気はない。現在の時点の学問で正しいとされていることはわかっているが、それが1000年後も正しいとされているかはまったく不明である。学生が1000年後には正しいとされることを解答しても、私は分からないから間違いと採点する。でもそれは正しいかも知れないからだ。

学問は今を否定しながら進むから、私が現在の時点で正しいということで採点することは本来、許せないことだ。だから、本当は「役割としての仮の正しさ」はあっても、「本当の正しさ」はわからないというのが正しい。

だから、「あの上司は間違っている」と息を巻いている酒場のサラリーマンは、そのこと自体が間違っているのである。

ところで「自分が正しいのではない。社会の約束が正しいのだ」という信念を貫いてみずからの命を落とした偉人がいる。それがギリシャのソクラテスで、自分は正しいと思う行為をしたのに死刑判決を受けた。弟子たちも判決を下した市民も、法律だから仕方がないとはいうものの、ソクラテスが微罪で死刑になるのはいくらなんでもと思って、牢獄の扉を開けておいたが、ソクラテスは「悪法も法なり」といって、弟子から毒杯を受け取って自害した。

(私がNHKの受信料を払っているのは、「悪法も法」であり、法はお上(そんなものはこの日本にないけれど)が決めて国民が守るものではなく、国民が決めて政府に守らせているものだから)

社会に向かって、何かを発言する人、指導層、学者、マスコミ、政治家などは、みずからの言動が社会の約束(法律など)に即しているか、法律は自分の考えと違えば、「遵法と改正」の二つを説明することをしているか、このソクラテスの毒杯の話を噛み締めてもらいたいと思う。

(平成26123日)