ある事件で年配の男性が連続して殺され、もしかすると男性が孤独であることで騙されたのではないかと言われている。事の次第は別にして、オスメスの区別があって、集団性の動物としての人間ではありうることだ。

多様性の時代になって、小さい時には勉強し、若い時に就職して結婚し、子供を作り、共白髪・・・本来の人間が送るべき(道徳的倫理的ではなく、私たちの遺伝子が示す人生で、もし人間が集団性を持たなければ、生殖の時だけオスメスが出会い、そのほかは単独で行動するから、家庭というのはないし、メスは一匹(一人)で子供を育て、子供はある程度の年齢になると巣立つから、メスも一人で生涯を終える)人生のスタイルが崩れることがある。

でも、それは自然の摂理に反しているので、寂しかったり、手助けをしてくれる人がいないなどの問題点が発生する。厳しく言えば、人間が自然の摂理に反した社会を作っているからその無理で起こっているものだ。保育園もその一つである。

ところで、人間の寿命が長くなり、女性では閉経後、男性では50歳を過ぎて「何のために生きているか?」がむつかしい年代になる。さらにそこに「本来、あってはならないプレッシャー」が本人を襲う。

1)社会が「老人」扱いをして居場所を失う。

2)死別・離別・離散などで家族を失う。

このような状態は「自然の摂理にもとづいた正しい人間の人生」ではないので、本人は不十分な人生の日々を送ることになる。10歳、20歳、30歳・・・60歳、70歳・・・年齢によって人間の尊厳や幸福に生きる権利が変わるものではない。

人によっては「死期が近い人間の時間は価値が低い」としている人もいるが、私は人間は誕生した瞬間から死ぬ瞬間まで同じ価値の時間を過ごすのが適当と思っている。だから、長寿になることは悪いことではないから、老人がなぜ生きているのか、本人の人生の価値、社会のなかの価値について議論を重ね、老人が豊かで楽しい人生を送ることができるようにしなければならない。

ところが、街を歩くと何から何までどんどん新しくなって、老人には疎外感が生まれる。変化する街の姿はまるで「この街には老人はいない」と言っているようだが、それは「お金にならないから」という経済的理由ではなく(老人は結構、お金を持っている)、「お前は価値がないから、お前が楽しむものは用意していない」とばかりのように見える。

多くの老人が寂しさを感じ、生きがいを失う一つの原因に「昔の面影が消える」ということにあることが心理学でも医学でも明らかになっていて、その具体的な治療法の一つに「回想法」というのがある。昔の庭のある民家、縁側、障子、上がり框などを持った民家でときどき時を過ごしてもらう。それだけで元気になる。

でも、それは「正しい街づくり」ではないように感じる。本当の街は「子供から老人まで全方向の価値を持った空間」であるべきと思う。それは調和するものであり、伝統と新しさはむしろ融合して美しい。日本の伝統建築はとても良いものであるし、ギリシャ風の建築物も優れている。建築デザインから言えば、近代建築にかならずしも軍配はあがらない。

服装にしても、日用品にしても、膨大な数の老人とその財布を目指したものはどれも貧弱で、それが「汚らしい老人」を現出しいている。自動車もそうで「華やかな生活を送りたい老人」向けの乗用車は皆無だ。「デザインがよく、乗り心地に優れている」車の多くが車体が大きく、街中で利用する老人むけではない。いったい、スーパーの駐車場に老人がいれる設計をしているのか?と思うほどである。

「水平社会」から「垂直社会」へ。そして子供から老人までが賑わう町並み、老人が消費をしたくなる多くの商品、それらは今後の課題だ。それとともに、私が40歳頃書いた随筆を思い出す。・・・老婆の一時間の価値は、若者の一時間と違うのか?・・・という私の問は変わらず、答えは「同じ」である。

(平成261214日)