日本人は傲慢になったのではないかと思うことがある。それは「俺の考えていることは正しいのだから、お前も従え」というのが、だんだん、激しくなってきたような気がするからだ。夫婦のいさかいも最近、お互いに「同じ意見にならないとダメ」というのが嵩じて離婚になったりしている。

私がそれを感じたのは、自民党と社会党の対立がなくなった高度成長期の終わり頃だった。それまでは「意見の相違がある」のが普通の状態だったから、「俺とお前は意見が違う」ということだったが、成長が終わって日本人が欧米並みの所得になると、「正しいことは一つだから、みんな、それに従え」ということになり、政党も「政策から言えば」自民党だけになった(名前は違っても、すべての政党が「自由で民主主義国家」を目指している状態)。

さらにこの傾向に拍車をかけたのが「ゴミの分別」だった。ゴミはゴミだから分別しても資源になるはずもない(もちろん2%ぐらいは資源になるが、2%を資源にする

ために10倍ぐらいの資源を使うので、資源学としては資源とは言えない)のに、「分別しない人は非国民」と言わんばかりにリサイクルが始まった。分別したければすれば良いのに、自分が分別しているのに他人が分別しないと腹が立つという社会現象が始まった。

分別する方が資源を浪費するのだから、「分別する人が悪」なのに、「悪い人が多数になったので、真剣に環境を考えている少数派をバッシングする」ということになったのだった。

それから、この傾向はますますひどくなり、ついに「クールビズ」へと発展した。すこし精神的におかしな社会でなければ「私服を規制する」というようなことは起こらない。かなり独裁制の高い国でも流石に個人が普通に着用する衣服を国家が指導したり、規制することはないが、日本では51日か61日を期して、ほぼ全員がネクタイを外し、ネクタイをしている人は非国民ということになった。

このようなことは日本にしかできないのではないかと思うのは、「ネクタイを外せと命令しているわけではない」と言いながら、「空気」に逆らうとどうなるかわからない日本社会の村的風習を巧みに利用したものだ。

このような陰惨な方法は教育界にも暗い影を落としている。京都に修学旅行に行く生徒は、制服のまま新幹線に乗り、京都について自由行動になると先生から「制服を脱いで私服で行くように」と指示される。理由は「外人に見られると野蛮な国と思われるから」ということだ。

生徒が制服を着るというのは先進国ではないことで、それが評判になって、学校が統制が強いとか、野蛮と言われるのを恐れている。日本国内では制服は不思議ではないが、国際的に通用しないと思いながら生徒に強制している。もちろん、制服が良いと思えば外人の前でも正々堂々、日本文化の優位性を示せばよいことだ。こんな卑屈な教育を受けて誇りある日本人になるはずもない。

私が再々、指摘しているJR東海の新幹線の検札もそうで、理由なき検札について私が小さい声で車掌に質問すると、斜め後ろの座席に座った人が「うるせいな!」といった。まさに「みんな右へ倣えしているのだ。お上に従わない奴はイライラする」という日本人気質そのものである。

STAP事件が笹井さんの自殺ですっかり報道がなくなり、論文取り下げにあれほど熱心だったNHKや毎日新聞は、10月に理研がSTAP特許の審査の継続を決めると、それにはなんの反応もしない。論文は書いた本人の責任だけだが、特許は組織が責任を持ち、間違いがあったらフロード(詐欺)として扱われる。それを報道しないのは、「みんながSTAPを問題にしなければ報道しない」という横並びだからだ。

今日はあるテレビで「減塩食事」をやっていた。血圧を測って塩分の摂取をコントロールするのではなく、血圧と関係なく、「塩分を取る量を少なくすること」、そのものが健康に良いと放送している。なんという野蛮な国なのだろうか? 非科学的といえば魔女狩りの時代を思い出す。

塩分をとらないと人間は死ぬ。そして適正な血圧(普通の人は150程度)に保つことが大切で、減塩食のために神経症や気力の低下、感染症にかかりやすくなっている人は多いだろう。合理的で科学的(血圧コントロール)であることが必要で、場合によっては間接殺人になることもあるだろう。

でも、いい大人がこんな子供か? 「みんなと同じことをしたい」というならまだ良いが、「みんなと同じことをしない人をバッシングする」というのは相当、精神的におかしな社会だ。さらに現代では、「違う感想をいう」ということ自体、ほぼ禁止されている。

あまりに当たり前のことですが、「自由で民主主義」というのは、自分の考えをしっかり持って、それを正々堂々と発言し(匿名ではなく)、人が違う意見を持っていても、それを尊重するということです。

ああ、息苦しい!!

(平成261210日)