最近の日本でいい加減な言葉というと、「エコ、ヘルシー、それに絆」だろう。いずれも本来の意味から外れて、人を脅したり、騙したりするために使用されている。
そのうちの一つが「ヘルシー」だが、一昔前なら「女子供をダマすのは簡単だ」の中に入ったと思うが、男女が同じ立場で社会に貢献しようとしている時、そんなことは言えないと思う。
食料というのはそのほとんど全部が生物から得られていて、他の生物の命をいただいて自分が生きているというものだ。だから昔から食事の時には手を合わせ、「いただきます」と言い、さらに最後はお茶碗にお湯をかけて米粒を残さず頂く。他の生物の命をいただいて自分の健康を守るのだから、食べる量は生きるのに最低限にしなければならないのは当然でもある。
もし、アメリカやヨーロッパに「なんでもフンダンに食べる」という文化があったとしても、それは人間だけを峻別したもので、日本の文化にはない。日本は「人間も動植物も同じく命のあるものだ」という考えに基づいている。
食料は「カロリーの高いほうが、命を少なくいただくことができるので、カロリーが高いほうが良い」というのは日本人としては当たり前の感覚で、「低カロリーはヘルシーだ」というのは、自分の健康のためにより多くの命をこの世から消すこと」を意味している。
「命の大切さ、自然、心、里山・・・などはくだらないものだ。動物などいくら殺しても良い」といっている人なら「低カロリーはヘルシー」だろう。自分のことだけを考えて他の命など眼中にないからだ。でも、多くの女性が普段は命が大切、自然を守ろう、心が第一などといっている。
「女性は自分がトクをするならウソをつく」というのも昔のことだろう。社会で責任ある立場で行動することが求められているのだから、信念をもって自分がそう思っていることを言うべきだ。
「低カロリー食品はヘルシーだ」という考え方は、まず知識人、女性、マスコミなどが使わないようにしたい。カロリーが高ければそれだけ食事は少量で「満腹」するのだから、高いカロリーの食材を「ヘルシー」と呼ぶようにしたいものだ。
ところで、ついでだが、食事に興味のある人や、「おコメ派」の人が「二酸化炭素を減らそう」といっている。これもヘルシーと同類に不誠実な言い方だ。
私たち人間は生物としての欠陥がある。生物というのは空気中の二酸化炭素を食べて(吸って)、それを体内で炭素にし、その炭素でカラダをつくり、エネルギーを得る。だから二酸化炭素と水、それに太陽の光があれば生きていくことができる。
それに対して、人間は二酸化炭素から栄養を得る反応を失ってしまって、「家畜」ならぬ「家生物」を飼育して栄養を得ている。つまり、稲を家畜にして田畑に植えて二酸化炭素を吸収させて、米粒をつくり、それを食べる。またはトウモロコシを家畜として育て、トウモロコシの粒を豚に食べさせて、その肉を食べる。この場合は二重の「家畜」(第一段目がトウモロコシ、第二段目が豚で、豚肉を食べるというのは、トウモロコシの命と豚の命を同時に頂くことになる)
ところがこの頃、少し気温が高くなるということで、なにか二酸化炭素を減らすことが善いことのように言う人がいる。イネにしてもブタにしても、人間より遥かに前からこの地球に生きていて、もっと二酸化炭素が高い時=かれらにとって食料が豊富なとき=のほうがずっと快適だ。今は二酸化炭素が少なく、余りにも寒い(現在は第二氷河時代で、人間のように家、暖房、衣服があればまだ良いが動植物にとっては寒い)ので困っている。
ヘルシーにしても、温暖化にしても、よくこんなにも二重人格で心が痛まないものだ。
(平成26年11月7日)