ある女性政治家が「ほうれん草の値段を知らない人は政治家になれない」と言った。わたしは「ほうれん草の値段を知っている人は政治家になれない」と言っている。政治家の仕事は「日常的なこと」と「将来のこと」の両方が大切である。

人間は、毎日、科学、宇宙、人体、軍事、外交などについて深く将来を考察しているとき、スーパーでほうれん草の値段をチェックすることは至難の技であり、通常では日常的な行為は思考の妨げになる。

だからといって日常的なことが下らないことではない。人間は日常なくして生きていくことはできないが、日常だけでも生きることはできない。

最近、女性の社会進出のひとつの結果であり、男性の日常化(政治、経済、軍事、科学、未来などについての興味を失った男性と言っても良いが)の結果でもあるが、日常的生活の中で、「お前は日常生活に気を配っていないのか!」とばかりに非難されることが多い。

たとえば、コンビニで弁当を買うと、いちいち「お箸をつけますか?」と聞かれることがある。弁当を食べるのだから基本的にはお箸がいる。そして今、森林は割り箸になるような端材の利用が少なく、森林が荒れている状態であり、割り箸を使うのは反社会的でもなくむしろ環境保全になる。

「ポイントカードをお持ちですか?」も困る。持っている人は出せば良いのであって、単に弁当を買った人にいちいち聞くなと言いたい。というのは、わたしはお弁当を買っている時も「シェール石炭の採掘方法」を考えているのであって、自分がお箸がいるのか、ポイントカードというのを持っているか考えることができないからだ。

JR東海の新幹線が「監獄列車」であることは再々、指摘している。なにしろ在来線の改札口を通り、新幹線の改札口を通って「こだまの自由席」に乗っているのに、(必要もないのに)待ってましたとばかり検札にくる。「切符を出すぐらい」と思うけれど私の頭はすでに新幹線に乗った途端から書きかけの書籍の構成にいっぱいになっていて、切符のことはほとんど忘れている。ゆっくり思考を巡らせようとしているところに検札が来る。切符はどこにしまったかを思い出すだけで思考は中断する。

私の好きな映画に「ハリーの災難」というのがあるが、そこには文学者が死体の横を通りながら、それに気がつかずに詩を読んだり、大富豪に絵が売れて「なんでも希望のものを」と言われているのに、「イチゴ、ワンパック欲しいわ」と言う寡婦が出てくるが、まさに人間の集団というのは「常識的なこと」だけをする人で構成されているわけではない。

たしかに文学者は変人かも知れないし、寡婦は世間離れしているかも知れない。でも、死体より詩に興味があり、1億円よりイチゴ・ワンパックの方が良いというのは、その人の見識なのだ。

お酒を飲んではダメだ、タバコを吸ってはいけない、後部座席でもシートベルトをしろ、服のボタンはちゃんとつけて、髪はボサボサではいけない・・・・礼儀正しいとか、公衆道徳を守るのは当然だが、他人に関係ないことでなぜこれほど息が詰まる社会になってしまったのだろう??? 

また新幹線の話だが、降りるだんになると、座席の背を元に戻せ、食べた弁当やゴミは片付けろとうるさい。実はあるときに「お客さんが降りて、次のお客さんが席に着くときに、次の人のためにきちんとした座席を用意するのは、JRですか前のお客さんですか?」と車掌に聞いたことがある。

車掌はやや困った顔をして「JRの責任です」と言いました。わたしは「JRがやれとまでは言わないけれど、検札をする車掌は検札するだけで、サービスをしている様子はないが、検札するなら座席も気がついたときには綺麗にしたらどうか。そうしたらわたしも協力するが」と言ったら、少し微笑んだだけで答えはなかった。

「そんなことどうでも良いじゃないか」というかも知れないが、そのうち、車内の清掃はすべて「JRの下請け」と「乗客」がやることになるだろう。実は車掌が座席を片付けないのは、列車の中の人の身分が「車掌>乗客>下請け」となっていて、車掌は「座席を直したり、ゴミを片付けたりするような下等な仕事は出来ない」ということらしい。

(平成261120日)