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個性を活かそうとか、多様性の時代というけれど、相変わらず「平均から外れる人をバッシングしたい」という感情も強い。中学生ぐらいの思春期ならそんなこともイジメの原因になるとは思うが、いい大人でも他人に対して「欠点を直せ」と言ったりする。

科学では大勢の人、個体、分子などがあると、かならず「同じもの」だけではなく、ある「分布」をしていることがほとんどと考える。たとえば、日本人の男性なら身長が160センチの人もいれば180センチの人もいる。確かに平均値は170センチだが、180センチの人は「不適切」だから、頭を削って平均にしなければならないということはない。

ところが、体重になると身長とは違って、他人に「太りすぎだ」という人がでてくる。体型だって個性があるのだから、小太りでもヤセでもそれは問題がない。その人にとって最適な体重があり、それがもっとも良い。だれでも同じ体型ということはありえないが、厚労省や専門家が「BMI」なるものを作ると、日本人全員がそれに合わせようとする。

身長、体重ならまだ少しは良いが、「空気を読めない」とか「動作が遅い」などということになると、イジメの対象のような感じで到底、大人が他人に注意するようなことではないと思う。

「空気が読める」というのは実は自分に意見がなく、他の人の顔色を見て素早く判断し、その時に言えば良いことをいうという「太鼓持ち」の人かも知れない。空気が読めない人は自分の考えがしっかりしていて、空気を読まずに自分の考えどおり行動している場合がある。

日本では自分の考えを持たずに空気を読む人が出世するのは仕方がないが、それを無理やり治させるのはどうかと思う。また「動作が遅い」という人は単に動作をするだけではなく、その時によくよく頭を働かせているのかもしれないし、動作が速いという人は何も考えずに行動していて、浮ついているかもしれない。

日本人が殊のほか人のことを気にして、なんでも平均的でなければならないと考えるのも良いとは思うけれど、それには二つの方法がある。一つは芋づる方式で、優れた人をより良くして平均を上げていく方法、もう一つは、劣った人をバッシングして欠点を直す方法だが、私の経験では、芋づる方式の方が成果が上がると思う。

第一に、芋づる方式は明るい。人をバッシングすると暗くなるが、良いところを伸ばすのは気持ちの良いものだ。そうすることによって全体のレベルが上がるので、自然と良い方向に向く。

この場合も「分布(個性)の幅」はあるので多様化は保つことができる。封建主義の日本なら画一的でもよかったかも知れないが、一人ひとりが判断するほうが未来の日本のためには良いのではないかと思う。

つまり、誰かをバッシングして改善をさせるのはかなりむつかしいし、その人に大きな負担もかける。それなら「平均値を少しずつ上げていく」ことによって知らず知らずの間に、欠陥が改善されていくほうが良いだろう。

(平成26115日)