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日本社会は戦後の1956年から1990年まで高度成長期を迎え、1971年までの第一期の年平均経済成長率は9.0%、第二期のそれは4.5%で、この34年間に日本のGDPは8.8倍になりました。GDPそのものがお給料ではありませんが、簡単に言うと、月給やボーナス、年金の支払い、道路などを含んで、5万円が44万円になったようなものです。

1956年の日本は貧しい国でしたが、1990年の日本は世界でも一、二を争う一流国(経済では)なったのです。驚くべき成長で、驚異の日本と言われ、後半は”Japan as No.1”とまで言われるようになりました。

私の若い時代というのは、第一期が学生時代、第二期が若手の技術者の時代でした。毎日、朝の6時に起きて7時に家を出て、8時に会社につき、毎晩、10時に会社を出て11時に家に着くという生活でしたが、当時はこれが普通の生活で、「猛烈サラリーマン」とか「日本株式会社」、さらには「うさぎ小屋に住む日本人」と言われながら、ひたすら日本のため、家族のために働きました。

最近の若い人はお酒を飲んで帰るというのは当たり前ですが、当時も回数は少なかったのですが、もちろんそんな日もありました。でも、ビールはあまりにも高くて飲めないので、安い日本酒かトリスウィスキーを飲んでいました。酒屋の隣に小さな場所があり、そこで缶詰や魚肉ソーセージを頼んで、いっぱいやったものです。

良い時代とは言えませんが、それでも精神的には楽でした。よく立ち飲み屋にはタクシーの運転手がそこらへんに車を止めて、いっぱい引っ掛けたり(良いことではないが現実はこうだった)、男性の喫煙率が85%の時代ですから、そこら中にポイ捨ての吸殻が散乱していたのです。

テレビ、冷蔵庫、洗濯機という当時、三種の神器と言われた家電製品を買って、家内や家族の喜ぶ顔を楽しみにし、住宅のローンを必死に払ったものです。なぜ、そんなに働いたのか?と聞かれるとやや困ります。というのは社会は全体としてある雰囲気ができると、それになんとなくみんなが夜遅くまで仕事をしているとそれに慣れて早く帰る気になりませんでした。家族も周囲の家もみんなそうですから、特に疑問を持っていなかったのです。

でも、私たちが必死になって働いたのは、「自分たちの時代は貧乏だったが、子供たちの時にはアメリカのように豊かな生活をさせたい」と思ったからです。日本人全体が、「子供思い」だったのですね。その頃、「パパはなんでも知っている」というようなアメリカの中流家庭の日常生活を見せるテレビドラマが流行って、冷蔵庫も車もある生活に羨望の眼差しを送ったものです。

貧乏な時には家族で協力して生活をしていますから、夫婦の仲が悪くなることもなく、親子も協力しているので、不満はありませんでした。女性にすこし不利でしたが、女の子は兄弟が大学に進む時には自分を犠牲にしてお兄さんを支えたりしていた時期だったのです。

その代わり、お兄さんも妹を生涯、大切にしてくれました。すでに「家長制度」というのはありませんでしたが、まだ家族の絆の強かった時代でした。

そして1990年、一気に駆け上がってきた私たちはバブル崩壊という大波にあって、成長を止めることになります。株は下がり、土地も下がり、すべてはダメになったように思いましたが、そうではなかったのです。成長が止まったというだけで、実は1990年には「希望が叶った」という状態になっていたのです。

持ち家、自家用車、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、内風呂(子供の頃は誰もが銭湯に行きました)、水洗トイレと夢のような生活が始まったのです。ところが、せっかく34年間も必死に働いたのに、誰かが「節約」などと言い始めました。

その時にはそれがどんな陰謀なのかわかりませんでしたから、「節約も大切」と錯覚していたのですが、もともと節約するならあんなに一所懸命になって働く必要もなかったのです。「なにが間違っているのだ? せっかく豊かになったのに、なんで節約するのか?」と疑問に思ったのもこのころでした。

(平成26107日)