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中国や朝鮮との関係を改善できるのか? テレビなどで盛んに中国や朝鮮を批判する番組をやっていますが、憎み合うならもともと中国や朝鮮の話をしないほうが良いというのが私の考え方です。そこで、「相手はなにを考えているのか」について歴史的なことを中心に整理をしたいと思っています。その2回目です。

アジア諸国の中で中国と朝鮮だけが「白人と戦わなかった」という特殊な歴史を持っています。これほど広いアジアなのになぜ中国と朝鮮だけが戦わなかったのでしょうか?(今のタイ、昔のシャムは外交で処理しました。これは特殊なケースなので別に示します。例外というのはいつでもあるもので、例外より本筋で行きます。)

最初はスペインとポルトガル、後にオランダ、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツと白人が次々にアジアに来て、アジアの諸国を「奴隷的植民地」にしました。この「奴隷的植民地」というのはある読者の方の示唆で単なる植民地ではその状態を示すことができないということで、私もそう思います。

当時のアジアは「その国の国民がその国の領土に住む。力があっても隣国を攻めたりしない」という状態でした。たとえば、日本は鎌倉時代ぐらいからかなり強く、大陸のほとんど全部を占領したモンゴルも日本には勝てずに撤退しました(神風が吹いたというのは歴史的な脚色です)。だから江戸時代までの日本がもし白人的考えを持っていたら、台湾、フィリピンなどを領土にすることはそれほどむつかしいことではありませんでしたが、アジア人(中国、モンゴルを除く)にはそういう「アイディア」自体が少なかったようです。

この傾向は白人に滅ぼされたアメリカ大陸の住民(アメリカンインディアンと呼ばれていましたが、今では少し良くなってネイティブアメリカンと言われるもともとのアメリカ人、マヤ、アステカ、インカなどの人たち)も同じ傾向がありましたが、かわいそうにアメリカ大陸では国を取られたばかりか、ほぼ根こそぎ殺されてしまいました。

ともかく、白人が地球の裏側からアジアに来て、インドネシア、インド、セイロン(現在のスリランカ)、フィリピンと順序よく奴隷的植民地にしていったのですが、その殆どは強力な海軍と陸戦隊を上陸させて、あるいは現地政府を騙して植民地化していったのです。そして、アジアのすべてを植民地にした後、地理的にもっとも遠い中国と日本にやってきました。日本は鎖国をしてがっちり守っていたので、19世紀の半ばまで近づくことはできませんでしたが、中国はすでに「清」が衰えていたので、少しずつ侵略していきました。

「中国は何故、白人と戦わなかったのか?」を理解するためには、「中国とはどういう国だったのか?」と「清はどういう帝国だったのか?」を知る必要があります。

清は満州にいた(中国人=支那人とは違う)女真族の王、ヌルハチを祖にする国で、満州で力をつけ、当時、ボロボロだった中国の王朝、明を滅ぼして北京に都を定めました。もともと満州は荒涼とした土地で、ものすごく寒かったので、北京に移動した彼らには天国のようなものだったのです。爛熟した明の文化を味わい、広大な宮殿、美人ぞろいの後宮など、それまで田舎暮らしだった女真族の指導者にとっては夢の北京だったのです。

明の時代に北京のすぐ北に万里の長城を作って「夷狄」(いてき、野蛮な外国人)から中国(支那)を守ろうとしたことでもわかるように、中国人(支那人)の意識は、「中国は中原だ」(中原とは中国の中央部の平野)だということで、特別な場合を除いて積極的にはその外に膨張することはありませんでした。

ところが、清王朝だけはもともと「万里の長城の外の人」ですから、領土の制約はありません。そこで、力のあった清朝の最初の時期にはどんどん外の領土を取り、大きな国になりました。下に宮脇先生からお借りした明と清の領土の大きさを比較しましたが、清の領土がそれまでの中国の領土より格段に大きいことがわかると思います。

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つまり、明の領土がもともとの漢民族が住んでいた「中原」とほぼ同じで、その外側は異民族だったのです。明の時代ですら、その領土でも南の地方には少数民族が住んでいました。このことが後に白人が来た時の中国の政策に大きな影響を与えます。

(平成26923日)