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教育はその国の発展と強く関係している。前近代的というと少し古くなるので、ここでは「古い時代」と言っているが、それは「国家が最優先」で、「国民は国家の為に奉仕する」という時代だ。もともと「国家」というのはそれほど古いものではなく、大体は18世紀から19世紀に誕生したもので、それ以前は「国」はそれほどはっきりしているものではない。

いずれにしても、国家が最優先の時代には、当然でもあるが、「教育は国家が必要な人材を作る手段」と考えられていた。たとえば、「我が国は強い軍隊が必要だから、心身ともに強い男子を作る。女子には教育はいらない」というような考えだ。これをここでは「古い時代の考え」と一応、呼んでいる。

しかし、これが古い考えとは言えない。今から2年ほど前、とある会合で「大学受験はなくしたほうが良い。本人の成長を考えた教育を」という話をしたら、ほぼ全員が「そんなことをしたら日本がダメになる。そうでなくても今の若い人は勉強しないのに」と反撃された。つまり、現代でも国家が優先で、日本が繁栄することが第一であり、そのための人材を育成するのが教育だと考えている人が多いことがわかった。

確かにそうかもしれない。でも、歴史は違う。「国家のための教育」からいつの時点かに「個人のための教育」に代わり、一人一人が自分にあった教育を受けることで、その結果として国家が最善になるという考え方になる。一律の目標を置いて、全国民がそうなるように努力するということと、一人一人がもっともよい状態になることがひいては国家のためにもなるというのと、どちらが「個人にとって」、「国家にとって」良いことかは少なくとも日本ではあまり議論されていない。

どちらかというと日本人は穏やかで集団的だから、「全体の為に」とか「みんなのために」というほうが性に合っていて、いわば欧米流の「個人が良くなれば集団もよくなる」というほうが間違っているかも知れない。遺伝子から違うのだから、欧米が個人だから、日本も個人だというのは早計すぎる。

でも一度、考えてみたほうが良いのではないだろうか? 私は現実に教育をしてきた経験からいうと、少なくとも現代の日本人はまだ「全体にたいする奉仕」という考えが強いので、「真なる目的は個人の個性の尊重だが、方法として集団の目標を示す」という程度ではないかと思う。

個人は社会の影響を受ける一人であり、ともに歴史の中の一人でもある。そして人間は錯覚の動物だから、その時代、その社会の影響を受け、(DNA,ミーム、ミラーニューロン、大脳皮質)の影響をさまざまに受ける。つまり「欧米が個人だから、日本も個人だ」というわけにはいかない。特に教育のようにその人の一生を決めるようなものはかなり慎重に考えないと被害を及ぼす。私の経験や知識から来る判断も正しいとは言えないが、とにかく、私の感じでは、「集団的目標の中で、個人を伸ばす」のが現代の日本ではよいように思う。

特に15歳から22歳までの高校大学生の男子は「自分のため」に生きるのが辛い年代だ。つまり「自分のため」という教育を受けるには「自分」ができていなければならないが、まだ自分がフラフラして確立しない。このころの男子は「自分」を「周囲に反射してしか見ることができない」という傾向がある。自分の体を鏡に映してみるように、男子は反抗してみて周囲の反応を見るという手法をよくとる。だから「君は何をしたいんだ」などと聞いても、「君」がないのだから答えようもない。せめて「世の中の為になりたい」ぐらいは言える。

現代の教育のゆがみは、「国家のための教育ではなく、個人のための教育」という「正しい考え方」を「個人がまだできていない人」に強制することにある。この問題は男子と女子とで大きく違うが、これも「男女は同じ」という概念で取り組むので、さらに複雑になる。

いずれにしてもこのシリーズの第一歩として、「古い教育」と「新しい教育」とは何かを考えていきたい。昭和27年、つまり戦争直後に一度、このような議論は十分にされているが、その当時、あまりに戦争の記憶が鮮明だったので、現代に合致するとは言えない。そこで、ここでもう一度、現代の混迷の時代の教育とマスコミを解明したいと思う。

マスコミと教育は社会を繁栄するものとして同じだ。現在のこの分野の混迷は日本社会の混迷をそのまま鏡に映しているようなものだからである。マスコミをやたらと批判しても、それは日本社会の問題だからだ。

(平成26831日)