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6.第二章のまとめ

 

さて、この章では剽窃とは何かということを「法律と内規」、それから「学問領域、教育」に分解して議論を進めてきた。その結果、わかったことは、次のことである。
1
)法律は整備されていて合理的である、
2
)内規は村の掟で誰でも任意に罰することができる、
3
)したがって内規を用いて不正という人はアウトローである、
4
)このことは理科系でも文科系でも同じである、
5
)教育の剽窃はあらゆる場合に成立しない。

 

学問は普遍的であり、特定の「人間」などに的を当てるものではないので、その点では現在の日本の研究機関における剽窃の規定はすべて学問にはなじまない。まして20147月に日本学術会議がSTAP事件で小保方さんの処分を急ぐべきだと勧告したと報じられているが、私はまったく異なる考えである。

 

科学が嫌うのは「魔女狩り」であり、「魔女狩り」を退治したことが科学のプライドでもある。科学は人間の闇の心に光を与え、闇をなくすのが科学の一つの役割でもあるからだ。現在、名古屋駅前で異常気象の原因と言って女性が火あぶりにならないのはとても良いことだ。それこそが科学の成果である。

 

しかし、文科省が推奨している「剽窃」の基準を使えば、現代の魔女が火あぶりになる。それこそが許されざるものであると私は思う。ただ、これは武田という個人がそう思うだけで、多くの日本の科学者、評論家、日本学術会議、理研、文科省などは魔女狩りを推奨しているのも事実なので、現代でも魔女狩りが必要なのかも知れない。

 

また本章の整理をすることで、次のような結論を得た。
1
)学生の作品の所有権(著者)は先生である、
2
)学生の作品に問題があればその責は先生が負う、
3
)研究で「引用」の意味がはっきりしていない、
4
)「引用」の必要性が文章で曖昧で、口伝になっているのは学問とはなじまない。

 

しかし、奇妙である。あらゆる社会的活動の中でもっとも利権と無関係で、誠実、事実、論理などが大切な学問領域でなぜこのような不合理、非論理的なことが起こるのだろうか? 多くの一般の人がそう思うに違いない。

 

でも、残念ながら科学に長く身を置いた私は、それは仕方がないと思う。というのは学問の世界、教育の世界は一般社会に比べて、妬み、親分子分、不合理、不当な圧力などが満ち満ちているからである。

 

第一章、第二章の整理を行って、私がもっとも驚いたのは(自分で整理して自分で驚いた)のは、「剽窃で処分を受ける人」が正しく、「剽窃を言って他人をバッシングする人」が社会的な正義に悖る人だったということだ。著作権にも触れず、守ることが不可能な規則を盾に取られて剽窃を言われるのだから、近代国家とも思えない社会の反応である。

 

しかし日本社会は剽窃で責められている人を悪人をして取り扱っている。これは、現在の日本社会が「公的な財産」を忘れて、「すべてのものには個人の所有権がある」と固く信じていることによると考えられる。日常的な生活では家の前は公道で誰が歩いても構わないし、公園に行けばベンチがある。しかし、それらは本来的に公共のものではなく、税金を払っているので、所有を強要しているだけという感覚である。

 

人間という集団が本来持つ財産という概念は、個人主義の社会で大きく後退しているように見える。しかし、仮に「公園のベンチ」が本来的な共有財産ではなく、みんなで税金を払っているから共有だというなら、理研の研究費もまた税金で行われている。人類の知の財産はもともと共有財産であるし、さらに加えて理研の研究は税金で行われているのに、それを所有物のように考えることが事件を引き起こしているようにも見える。

 

アメリカの国家的著述物がアメリカ人全体の財産であるとされているのに対して、日本政府の刊行物は必ずしも共有財産ではない。第一章の冒頭に示した厚生省から国立研究機関の所長になった人が朝日新聞の故なきバッシングを受けたのも、このあいまいさが原因している。

 

さらなる研究が必要である。

 

(平成26815日)