メディアが視聴率などを気にして、ありもしないことを大げさに演出してダブルでもうけるということは多くの日本人がよく理解するようになりました。佐村河内氏の偽作問題はNHKが創作し、偽作が露見するとそれでもう一度、視聴率を稼ぐというマッチポンプそのもののものでした。
そんなことが続いて、密かにメディアの関係者の中で言われていることの一つに読売新聞の販売部数が極端に減っているということで、この流れは読売新聞が原発や国防関係であれほどの情報操作をしていれば当然のことと思います。ただメディアを叩くと、その巨大な情報力で個人を潰してくるので、誰も批判できないということです。
さて、梅雨の後半にあたって毎日のように「記録的豪雨」という報道が流れます。その中でももっとも悪質なのが先日の東京の雨でした。アナウンサーが「記録的豪雨」と叫び、膝ぐらいまである中を歩きます。しばらくすると線路の下を通る道路に屋根まで使った自動車、泳いで近づく警察官・・・これまでには見たことがないような映像が流れます。
しばらくして、画面に降雨量がでて、「1時間48ミリ」??! えっ!1時間50ミリでこんな状態??? 次の日の九州の雨も「記録的」と報道されていました。
「オオカミが来る」ではありませんが、事実と異なることを言い続けていれば、人はなにも聞かなくなります。雨の被害は「自然の責任」と「人間の責任」の2つがあります。人間の責任の多くは政府の治水事業で、どの国でも政府の最も大切な仕事の一つに「治水」があり、古くはナイル川の氾濫などがそれに当たります。
その地方を襲う自然災害からいかにして国民を守るか?そのために政府があると言っても良いほどです。小学校の頃、昔、治水に力を尽くした偉人の話を一つか二つは聞くものです。
10年ほど前から、メディアは「普通の自然災害」を「異常気象」と報じ、多くの人があるいは亡くなり、あるいは被害を受けてきました。その裏で、治水工事をサボり、お金を手にし、ぬくぬくとして増税し、天下りをしているのが政治家と役人でした。
東京の治水計画はどうなっているのでしょうか? 雨なら1時間50ミリというのはそれほど珍しい降雨量ではありません。また7月の長崎なら1日800ミリぐらいは数年に一度はあります。治水計画では税金の使う量と危険の確率(何年に1度の災害まで耐えるようにする)で決まっています。それを報道し、明日の降雨量は何ミリと予想され、それは治水計画を超えるので注意してくださいというのがまっとうなメディアというものです。
ところが現実はさらに酷く、特に土砂崩れの修復は、「次に同じ条件の時には同じ災害が起こるように修復する」という規則があり、それによって定期的に土砂崩れが起こるようにしているのです。それは土木業者からの資金の流れで決まっています。つまり人の命を盾にお金を儲けるシステムがまだ存在しますが、それを打破するのが本来のメディアのやくわりです。
大雨、土砂崩れ、河川の氾濫、マンホールからの吹き出し、竜巻被害・・・自然のせいにしないで、少なくとも「私たちはどのぐらいの税金を充てられる。そして何年に一度ぐらいの災害なら耐えて欲しい。それ以上になったら避難する」という論理的な災害対策をテレビが流すようにしてもらいたいものです。
庶民と自然に責任をかぶせ、治水に責任を持つ人がぬくぬくとする社会は感心できません。
(平成26年7月4日)