「歌は世につれ、世は歌につれ」と言うけれど、1966年に「柳瀬ブルース」が大ヒットしたにはそれなりの理由がある。一つは高度成長期で石油ショックの直前である。皆が大きな夢を持って人生を送っていたが、それでも何かの不安を抱えていた。
ドンドン豊になるけれど、なにか不安だという心をこの歌が男女と盛り場のなかで表現した。でも、この歌にはもう一つ大きな意味があるように思う。
当時、この歌を歌った美川憲一は売り出したばかりの優男で、その後、大麻事件を経ていわゆるオネエキャラになる彼とは違うが、社会はそれも感じたものと思う。
私が美輪明宏のジェンダーレス論文を読んだのが確か、1965年だったように思う。私はその論文に衝撃を受けたのだが、そこには「人間は男と女の前に人であるはずだ。私は人として人生を送りたい」という内容のことが書いてあった。それまで、男はズボンをはき、気が荒く、髪の毛が短い。女はスカートをはき、優しい性格で、髪の毛が長い。人には二つの種類があると何も考えずにそう思っていた私は恥じた。
確かに、子どもを産む、戦争で突撃する、力仕事をする、英語の通訳をするなど男女で違いがあるものもあるが、それは「同じ人間でも特徴がある」ということかも知れない。自分はまず「男女」があり、その後に「男女も同じ人間だ」と思っていたのではないか?ということが判ったのだった。
私が「お金や名誉」から離れて、「自分がしたいこと」を知ったのが32歳であったが、ちょうど、その少し前に当たる。私の変身のための蓄積時代に遭遇した衝撃だった。
戦後、男女の役割が弱まり、女性の社会進出が中で、美輪明宏が生まれ、「ジェンダーレス」の概念が誕生してきた。それと現在のオネエ系や、性同一性症候群とは少し違ってもっと前進的とも言える。
もちろん、オネエ系であれ、性同一性症候群であれ、人は「男女」の前に人なのだから、何も問題は無いし、それを強調すること自体がおかしいが、社会現象としてはなかなか興味あるタイミングだ。
そして、今、美川憲一活動50周年を期して、柳瀬ブルースが再び世の注目を浴びているが、それは2020年からの新しい時代の到来を暗示するものだろうか?
(平成26年7月3日)