子供を教えている人は多かれ少なかれ感じておられることと思いますが、私も多くの思い出がありますが、ここでは先日の被爆者と中学生の事件で読者の方のご感想などから二つの経験をお話ししたいと思います。
私は物理や材料工学を教えてきましたが、最初の頃は「試験」というものをやっていました。一学期15回教えると、16週目に試験をやって、単位を出すかどうかを決めるという普通の方法です。何年目からか忘れましたが、「学生に教えてもいないし、できるはずがないほどの難しい問題」というのを5問ぐらいの問題の中に1問入れるようにしました。
もちろん、学生は文句を言います.「教えられていない問題がある」と来る学生がいましたが、それはこちらにも準備がされていて、「あ、そう。でも有機材料工学を勉強するのは君で、私はそれを助けているだけだから、君が図書館で勉強したものも問題に出さないと思ってね」と答え、人生は教えられることだけではなく、なにを自分で獲得していかなければならないのかを教えました.
でも、しばらくすると私は新しい発見をします.それは「誰もができない問題を出しても、必ず2,3人は正解」という現実に直面したからです.私も教えない、なかなか本にもそこまでは書いていないという大学生としては解けるはずもない物理の問題を十分に理解して書いてくる学生がいるのです.
若いと言うことは無限の力を持っている、無限というか大人が若い人の力に枠をかけてはいけない、と強く思ったのはこのような経験で知ったことです。「この問題をここまで解ける学生がいたのか!」とびっくりすることもしばしばでした。単に物理的な計算が難しいと言うだけではなく、経験がないと到達しないような解答すらしてくるのです.
よく、「教科書にでていることだけ覚えれば良い」とか、「教科書には必要なことはすべて書いてある」などと言うこともありますが、これは柔軟な若い頭とはまったくマッチしないことで、人間の頭脳はそのように枠の中で育てたら、大きく伸びる頭も伸びなくなるのも当然のように思います.
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私が試験をしていた時期は5年ぐらいで、その後、試験をしなくなりました.それは「学生は個人個人で能力も違うし、得意不得意もある。また、本人がこの科目を得意にしようという場合もあれば、わずかな知識でも良いと思っている場合もある.それなのに一定のレベルを合格とする試験はできない」と思ったからです.
このように私が感じたのは、単に大学での私の講義や試験ばかりではなく、大学の管理、文科省の委員会などに出席し、さらに世界20カ国ぐらいの教育をつぶさに見て勉強した後でした.そこで、私は一定のレベルの試験をしないことを決め、問題は出すが学生は自由に回答し、答案の長さだけで採点するようにして、その旨を学生に教室で言いました。
最初は学生はドッと笑って、試験に取り組みましたが、翌年からその話はすぐに伝わっていきました。ところが、その前の数年より実質的に採点しない(長さだけで決める)方が、全体のできが良くなったのです!!
これには二つの理由が考えられます。一つは学生が自由な雰囲気になったので勉強する気になったこと、第二に私が講義中に「どうせ、勉強するかどうかは君たちの問題だ。私は君たちの人生に責任は持てないから、勉強してもしなくてもどっちでも良い。お習字をならっても隣のうまい奴の習字をコピーして出しても意味がないから」という話を3回ぐらいすることで学生に考えさせた、などでしょう。
いずれにしても、採点をするより、しない方が学生が勉強するようになったのは驚きと言えば驚きですが、当たり前と言えば当たり前です。人間は自分の心を持ち、自分を大切にしているのですから、勉強の結果に先生が興味を示さない(採点をしない)ということになると、自分が自分で決めることになるからだと思います。
ある読者の方から子供の可能性について、中学生の暴言の問題でメールをいただいたのですが、私たちは甘くならないように、しかし子供の可能性を伸ばすようにしたいものです。
(平成26年6月17日)