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前回、小保方さんと私の会話という形で、論文のミスより、内容に興味がある人はどういう態度で接するかという具体例を示しました。それと現実に1月から5月までに起こったことがあまりにかけ離れていることに私がびっくりしたことが理解されたことと思います。

 

2回目は、一般的に科学者が「ウソ」を問題にしないことについて、整理をしてみたいと思います。

 

私たち科学者は、研究して、その成果を学会で発表、まとまってきたら論文に出します。普段は学会にでて自分の研究を発表したり、他の人の研究発表を聞きます。私はこんなことを40年もやってきましたが、未だかつて「その結果は本当ですか、ウソですか」という質問を聞いたことがない。

 

学会での発表は、「ウソはない」ということを前提として聞く。そんなこと聞いては失礼だと言うこともない。私たちは科学に忠誠を誓っているのだから、もしウソではないかと思えば、「ウソではないか」と聞く必要がある。科学は人間社会の上にあるからである。

 

研究発表は原則として新しいことだから、「発表を聞く前には自分の頭に入っていない事実」だから、それが「ウソか本当か」など判別できるはずもない。だから、科学の世界では「ウソか本当か」を考えるだけ時間の無駄というものである。

 

それではまったくウソはないのだろうか? 科学は「研究対象の自然」と「研究する人間」の二つがあり、人間の方はウソをつくことがあるだろうけれど、自然はウソをつかない。だから、もし誰かがウソをついて、その研究がその人だけしかやらなければ永久にそのウソはばれないし、また誰も注目しないのだから、ばれてもばれなくても「意味がないもの」として歴史の中に消えていくだけのことだ。

 

STAP事件で日本社会が間違ったのは、「日常生活や政治など人間しか介在しないこと」と錯覚したからに他ならない。STAP細胞がウソなら、今後、だれも見向きもしないだろうし、本当ならだんだん、事実が出てくるだろうからである。その方が前向きで、労力も少ない。

 

人間がすることをいちいち「ウソか本当か」を確かめるとすると、学会にも膨大な「捜査班」を作らなければならない。しかし、「自然」という監察官がいるので、時が経つのを待てば自ずからウソか本当かはわかってくるし、ウソならウソを言った人は学会では誰も信用しなくなるので、罰も受ける。検察官も裁判所もあるので、問題はない。

 

第一、新発見、研究者の錯覚、ウソは紙一重で、それほど区別できるものではない。新発見でも100年近くは再現性がないものもあれば、研究者は多くのデータから間違いないと(善意で)思ったことが結果的にウソだったと言うこともおおい。なにしろ「新しく困難なこと」に挑戦しているので、難しいのだ。

 

単純ミスもある。私などは学生に「サンプル瓶には必ず名前を書け」と口酸っぱく言っていた。男子大学生はサボりだから、サンプル瓶に名前を書かず取り間違えることはおおい。また測定器が不調で思わぬ結果を出し、そのときにそれが「すばらしい結果」と思うこともある。あまりに荒唐無稽なら気がつくが、自分が「そんなデータが欲しい」と思っているときに測定器が偶然に壊れて、期待されるようなデータを出すこともある。

 

それも全部飲み込んで私たちは学会発表を聞く。国内はもとより、世界でも研究仲間はそれほど多くない。同じ研究の最大人数は4000名ぐらいと言われるが、普通は200人とか300人でも多い方だから、一度「ウソ」をついたら、その後は何回発表しても誰も聞いてくれないから意味がない。

 

また、ウソをつく人はほとんどいないが、それでも2種類の人がいて、卒業を間近にした学生、もう一つがやや頭の調子が悪くなった名誉欲の強い40歳から50歳代の人だ。学生は就職が決まり、万が一卒論を落第すると大変なことになるので、インチキをすることがある。また40歳代50歳代で他人との競争、地位を獲得するなどのことで、将来が見えなくなり、ウソに走る人もいるが、私の経験では最大でもウソは5年ぐらいでバレる。

 

STAP事件ではこのような私たちの日常生活と全く違う展開をした。多くの日本人が「ウソか本当か?」、あるいは「STAP細胞はあるのか?」などに関心を持った。小保方さんにレベルの低い質問をした記者は今頃恥じているだろうが、「STAP細胞はあります」と小保方さんが答えたのは実に可哀想だ。そんなこと、決まっているじゃないか。論文を提出した人は、その論文が不出来かどうかは別にして、論文の主旨はそう考えているから出している。それを聞いてどうするのか?と記者の頭脳の程度か、日本社会の異常性を感じた。

 

STAP論文が理研の誰かが仕掛けをしてウソだったこともある。でも、そんなことを詮索するぐらいなら、自分の興味のあることを研究して欲しい。詮索する人はSTAPに興味がないのだから関係ないじゃないか! もし正義感があるなら、小さな正義感ではなく、科学と人間のことを深く考えた正義感(無視)を選択するべきである。

 

科学に一般社会のしきたりや常識が入り込んだら、科学は進歩が大幅に遅れる。

 

(平成26610日)