2014年6月初旬、第二次世界大戦ヨーロッパ戦線の激戦になったノルマンディー上陸作戦の70周年記念が行われた。連合国であったアメリカ、イギリス、フランス、ロシアなどの首脳部と敗戦国のドイツからメルケル首相が出席した。
1984年の40周年式典の時、コール西独首相は「多くのドイツ兵が命を落とした戦場で、他国が勝利を祝う式典を、ドイツの首相が祝う理由はない」と出席を拒否。1994年の50周年式典もコール氏は参加しなかった。
しかし、2004年の60周年式典にはシュレーダー首相が「私たちドイツ人は誰が戦争を起こしたか知っている。その歴史を前に、責任を自覚して受け止める」と言って出席した。
あれほどの犠牲者を出したノルマンディー上陸作戦を、敵味方の首脳部が集まって式典を行うということは、ある意味で白人の優れたところである。何が「優れている」のだろうか?
人間の頭脳はやや不出来で、現代のホモ・サピエンスの文明がはっきりとはじまったころから、戦争に次ぐ戦争をしている。戦争が良いことか悪いことかと言う前に、まずは「戦争と言うものがあった」と言うこと自体を認める必要がある。
次に、戦争をした当時を考えると、両方の国民が「正しい」と思って戦争を始めたことは間違いない。攻める方も守る方も、「攻めたほうが良い」、「そのまま降参するより、守ったほうが良い」と考えたから戦争が始まったのだ。そして、「当時の考え」が「現在からみて間違っている」ということは論理的には結論がでない。
マケドニアのアレキサンダー、ローマ帝国のシーザー、モンゴル帝国のチンギスハーン、フランスのナポレオン、日本の源頼朝、徳川家康、西郷隆盛・・・すべては戦争の達人であり、同時に偉人である。
戦争を開始し、攻めた人が「悪い」という歴史認識は、現在までまったく存在しない。それが「ただ、自分の国を栄えさせ、自らの栄達を考えて、他国を攻めて多くの犠牲者を出した戦争を仕掛けた人」(=戦争犯罪人)であっても「立派な人」であり「偉人」であると私たちは教え、そう思っている。多くの国には、それらの偉人の銅像が立ち、尊敬する言葉が書かれている。
それではなぜ人類は戦争犯罪人を偉人といて崇めてきたのだろうか? アーリア人(白人、ヨーロッパ人、アメリカ人など)の論理は次のようなものである。
1) 戦争は人間の活動の一部である。
2) 戦争が良いか悪いかと言うことは問わない。
3) 白人は白人同士では上記の論理を適応する。
4) 白人以外の人類は人類ではないか劣等人類である。
つまり、第二次世界大戦というのは膨大な犠牲者を出した戦争だったが、さまざまな歴史の中で起こったことで、評価は一様ではない。とにかく国を背負って戦った将兵については敵味方なく、それを記憶して式典を行うのが後世のものとしての任務であると考える。この場合は白人同士の戦いなので、4)は論理の中に出てこない。
ところで、戦争に対するこのような論理はアーリア人だけではない。日本にも武士道があり、勝敗に関係なく敵将も尊敬する概念があった。ときどき、酷いことをすることもあったが、おおむね武士道は生きていた。その一つが日露戦争の時に、ロシアの旅順要塞が陥落し、日本側の乃木将軍とロシアのステッセル将軍の会見である。その時の様子を少しだけ下に示した。
・・・乃木将軍が、「祖国のために戦ってきましたが、いま、開城にあたって閣下と会見することは、喜びにたえません」と挨拶。ステッセル将軍はこれに答え、「私も、11ヶ月の間旅順を守りましたが、ついに開城することになり、ここに閣下と親しくお会いするのは、まことに喜ばしい次第です」。
ステッセル将軍「私のいちばん感じたことは、日本の軍人が實に勇ましいことです。ことに工兵隊が自分の任務を果すまでは、決して持ち場を離れない偉さに、すっかり感心しました」。乃木将軍「いや粘り強いのは、ロシヤ兵です。あれほど守り続けた辛抱強さには、敬服のほかありません」・・・
・・・ステッセル将軍「承りますと、閣下のお子樣が、二人とも戦死なさったそうですが、おきのどくでなりません。深くお察しいたします」。 乃木将軍「ありがとうございます。長男は南山で、次男は二百三高地で、それぞれ戦死しました。祖国のために働くことができて、私も滿足ですが、あの子どもたちも、さぞ喜んで地下に眠っていることでしょう」。
戦後まもなくは、このような「歴史の記録」をそのまま表現すると「戦争を賛美する」と言われたが、戦闘は残酷だが、それは「国の方針に従って、軍人は自ら任務を果たす」ということでそこには「善悪」はないというのが常識でもあった。
第一次世界大戦でのフランスのベルダン要塞戦では、要塞を守るフランス軍と、攻めるドイツ軍が戦い、死者はフランス軍362,000人、ドイツ軍336,000人、合計、698,000人だった。このような経験を積んで、人類はようやく戦争を放棄しようとしている。
「歴史を見つめる」ということはどういうことだろうか? それはできるだけ正確に事実を整理し、まずは現在の善悪判断をせずに整理して考え、当時の人がなぜ戦争をせざるを得なかったのかを解析することだろう。それには冷静な整理と判断を要するとともに、先入観や感情を後退させる必要がある。それが「他国と一致した歴史認識を作る」ことであり、ノルマンディー上陸作戦という極めて過酷なことでも真正面から見つめる勇気が必要である。
日本が、第二次世界大戦の激戦、沖縄戦や硫黄島の戦い、さらには中国との戦いのきっかけとなった上海事変などの式典ができる勇気があれば、それが近隣諸国との融和、戦争を無くすための議論につながると私は思う。
(平成26年6月6日)