言葉というのは「自分が相手に伝えたいことをできるだけ正確に伝える」というためにあるが、現代のように社会が複雑になると、「相手が誤解するように伝える」という高級テクニックも多く用いられる。その中には先回の「借金」のように大がかりで露骨な言葉の魔術を使うという場合と、第一回の「防護服」のように「軽い魔術」の場合がある。
もともと、原発の現場では「汚染防護服」と呼んでいたものを、現在では単に「防護服」と呼ぶようになった。玄人の人はあのようなペラペラのプラスチックフィルムでできた服で「放射線が防護できるはずはない」というのは当然だから、「防護服」でよいと思う。
しかし、私がブログに「防護服」を言葉の魔術として紹介したら、「えっ!それじゃ、原発で作業している人は高い放射線をそのまま浴びているのっ?! それじゃ危険じゃない!」といった人がいた。普通の人は「防護服」と単にいえば、放射線を防護できると思う。
それは「新聞、テレビは正確に言葉を使うはずだ」という日本のマスコミへの信頼感があるからだ。つまり「テレビが防護服と言っているし、放射線を防護できなければ意味がない」と最初から思っているからだ。
私が第一回に防護服を選んだのは、言葉を使うとき、それをそのまま受け取っても正確に理解できると言うことが前提で、聞いた人の横にいつも「解説者」がついていて、「今の防護服とは、チリがつかないようにしているだけですよ」と言うことは想定していない。
このようなことは科学の分野では初学者のグラフによく見られることだ。初心者のグラフというのは、グラフを見ただけではわからないことが多い。全く初期段階では縦軸や横軸の数字の意味が書いていなかったり、どの線がどの尺度に対応するのかが不明というのがあるが、少し高級になっても「これ、どういう意味?」と本人に聞くと、本人がとくとくと話してくれることがある。それでは駄目なのだ。
また、もっともひどい場合、「アヒル」を「農薬」と呼ぶことが適切かという議論があったことがある。アヒルは田畑で農薬として働きをするから、アヒルを農薬に分類した法律があった。「だからアヒルを農薬と呼んでもよい」という見解が出されたが、さすがに否定された。
形式的に「こう言ってよい」と言うことは多いが、言葉は官僚的な使い方では駄目で、「相手が誤解せずに正しく受け取ることができる」ことが大切であり、アヒルと聞いて、アヒルと思ってよいということがすべてである。
社会が複雑になり、官僚的になると、相手が理解できるかより、それでも責任はないという消極的な判断になりがちである。だから、「防護服」は放射線を防護できないことを積極的に伝えなければならないのだから、「チリ防護服」とか「汚染水防護服」などと呼ぶべきものなのである。もともと服というのは何かを防護するのは当然でもあるからだ。
(平成26年6月4日)