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3Dプリンターで人を殺傷させることができるピストルを作った大学職員が話題になっている。3Dプリンターと言うもの自体が目新しく感じられ、それで「自由に好きな形のものを作ることができる」というのも新鮮だった。さらに逮捕された職員が「ピストルを作る権利がある」という意味のことを言ったので、さらに話題は豊富になった。このことについて主として技術倫理から整理をしたい。

 

まず、技術の進歩でできるものが「倫理にもとる」ということがあるかと言う点だが、その典型的なものがノーベル賞である。アルフレッド・ノーベルはダイナマイトを発明し、それによって道路工事、資源の掘削など人間の生活は格段に改善された。

 

でも一方ではダイナマイトが戦争に使われ、多くの兵士が粉々になって飛び散った。このことに心を痛めたノーベルが「技術は平和目的に使う」ということで作った賞が、後に世界的な賞となったノーベル賞である。

 

ダイナマイト自体に問題があるのではなく、それをどのように使うかがポイントだということで、これは人類の発明品である「紐」も「刺身包丁」も同じである。紐で人を窒息させることができるし、包丁で刺し殺すことができる。でも紐が悪いとか包丁を使うなとは言わない。

 

これらの概念は「技術倫理のショーウィンドウ論」という。繊維(紐)、鍛冶(包丁)、化学反応(ダイナマイト)、電子制御(3Dプリンター)・・・いずれも人間の技術が生んだものであり、それ自体が悪いのではなく、それからできるものや、それの使い方に問題があるという考え方である。

 

これはかなり高度な議論で、科学者が「これを作ると問題が起きる」と考えたものをもともと作るべきではないか、それとも社会的に必要かどうかは社会が決めるかという設問でもある。ショーウィンドウ論というのは、科学者は社会が必要か、社会にどういう影響を与えるかを考えるのではなく、ただ「自分の作品をショーウィンドウに飾ればよい」、それを採用するかどうかは社会が決めることだという論理だ。

 

もし科学者が社会の必要性を考えると、どの技術にも欠陥があり、危険がある(紐を作ると首を絞めて人を殺すことがありうる)ということで、技術者が紐を作らないと社会は困ることになる。また科学者は社会の代表者ではないので、本当は社会が渇望していても「そんなものは作りたくない」と考えることもあるだろう。

 

もう一つは、どんなものでも危険性があるが社会的なメリットがあれば、かなり多くの欠陥でも、利得が上回るという場合があるからだ。その一つが自動車である。交通事故で年間5000人から1万人も死亡するというのは異常な事態だが、それにもましてメリットが多いので、自動車と言う技術的産物を社会は認めている。

 

この自動車の例はやや例外的で、このような大量の犠牲者のもとでも技術の産物が許されているのは珍しい。

 

このように3Dプリンターでピストルができること自体は技術倫理に関係がないが、今後、3Dプリンターで人体の一部を作って移植するとか、人体の一部を販売するなどが発生すると思う。技術はとんでもないものを作り出すもので、それに対して社会は常に「受け入れるかどうか」を判断しなければならないが、それもまた進歩である。

 

今回は、さらに製作者が「ピストルを作って何が悪い」と言ったが、これもまたなかなか興味深い発言である。つまり、「ピストルを作ること」は日本では「悪いこと」となっているが、「強盗に襲われても警察が来ない」というような広い国では、むしろ「ピストルを買いに行かなくても、簡単に手に入る」という装置は「良いもの」になるばあいもある。つまり「社会が受け入れるかどうか」とか「良いか悪いか」はその社会の状態で決まるのだから、技術はそれを勝手に判断してはいけないということになる。

 

製作者の発言について、多くの人が非難したが、若い女性が夜、暴漢に襲われることが多いが、人を殺すほどでもない威力を持つピストルのようなものを家庭で作ることができるのは「良いこと」かもしれない。

 

ショーウィンドウ論で常に問題になるのが、原爆の製造である。ダイナマイトと違って原爆は放射性物質を出すので、産業上の利用はなく、もっぱら戦争に使われる。そうなると「人殺しの道具」を作るのが倫理的に良いことかというと、これも技術サイドで判断することは許されていない。「正義のために剣を取れ!」というのは珍しいことではない。

 

武器(人殺しの道具)は時に「どうしても必要」ということがある。それが原爆まで及ぶのかということについては、現代世界では「抑止力を持つ平和のための兵器」というやや複雑な論理がある。この問題を技術者が製品を開発しながら政治的、社会的合理性をもって考えるというのは頭脳活動としても、また社会的システム(投票など)としても不可能である。したがって、「原爆製造」というかなりはっきりした倫理問題を含んでいるものもショーウィンドウ論で処理するのが望ましいことが分かる。

 

さらに基礎研究では「キュリー夫人が核反応を発見しなければ、原爆はなかった」という論議があるが、キュリー夫人が「ラジウム崩壊反応」を発見した時にはそれが原爆に結び付くことは予想できない。同じくDNAの発見が奇妙な生物を作り出すことになっても、それも予想せざることとして処理される。

 

それではこれまで「技術者が独自に判断して開発を止めるべきものはあったか」ということだが、毒ガス、サリン、爆撃機などを含め、まだ知られていない。

 

何かの機会に「技術道徳」と「技術倫理」の違いを整理したいが、3Dプリンターで拳銃を作ったから3Dプリンターの規制を進めるべきだというような安易な技術倫理論は技術の発展を阻害するばかりではなく、社会的な問題を起こす可能性が高い。一つ一つを感情的ではなく、論理的に処理することが求められる。

 

(平成26年5月20日)