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2014年5月8日に理研が小保方論文の再審査をしないことを発表したことでテレビ各社は「不正が確定した」と放送したが、正しくは「理研が最終的に不正と判断した」と報道すべきである。やや絶望したが科学の発展のために、反論をしておきたい。

 

また、小保方さんは個人で、理研は団体だから、それだけの理由で理研が正しく、小保方さんは「理研に善悪を判断される被告人である」とするのは適切ではない。さらに今回の理研の判断は次の3つの点で誤りは歴然としているので、その批判を添加するのがメディアの見識というものだ。

 

  1. 理研の規則は法律に違反している。
    公正な社会を運営するために著作権法と特許法がある。理研の「規則」のうち「盗用」としているのは、著作権法では合法で、むしろ人間の知の発展のために定められた規則だから、理研の「規則」が違法である。実験ノートにしても共著者の責任にしても、どこが決めているのかわからないような村の掟を優先している。研究機関とは言えない。

  2. 調査委員長が論文不正で辞任したら審査のやり直しが普通
    「規則に従って決定したのだから、誰が審査しても同じ」と新委員長が言った。それなら審査委員は誰でも良いことになるが、そんな屁理屈はない。人間の「判断」というのはその人による。私が判断したら不正にはならない。ウソを言うのが調査委員会と言う感じだ。

  3. かつて同じ不正をした人が審査委員に複数いる
    辞任した委員長は、自ら不正を認めたのだから不正をした人が裁くことはできないし、さらに委員の中に複数の不正者がいる。その人たちが委員会を構成すれば「この事件は早く終わらせたい」という方向で進むに決まっている。

この他にも、「雑だった」ことを「意識的な不正」と言っている。今日の記事を見ると新聞記者は忙しい研究者が雑誌の査読を見過ごすことがあることすら知らない(体験もしていない)のに、「サイエンスの投稿で指摘されていたことを知らないはずはない」という素人判断をしている。それなら笹井さんは気が付いている。

 

また、総合的な論文の価値とミスのバランスも考えなければならないだろう。理研は特許は取り下げていないし、論文と特許は違うといった。これを真正面から理解すると「発明は正しいが、論文は下手だった」と言っているに過ぎない。それなら多くの若者が論文を書かなくなるだろう。

 

一体、理研という組織は「何のために研究者は論文を出すのか?」がわかっていない。論文は「公知」のためであり、「個人のお金や名誉や地位」のために書くものではない。このことは根深いので、また適当な機会を見て書きたいが、論文を出しても何の権利も生じないのに、なぜこれほどの問題になり、その真偽が話題になるのか、曲がっている方が正しいほうをバッシングしようとしている。これも村の掟である。

 

個人的なことは言いたくないが、かつて若山さんが指導者で小保方さんが無給の客員研究員だったのが2年も続いているのに、今回のことでは、ほぼすべての「悪い情報」の出所が若山さんであることが気になる。どうなっているのだろうか?

 

日本人はかつて「判官贔屓」というほど「弱い者の論理」をよく理解したが、現在ではそれは「長いものに巻かれろ」になった。その典型が「独立国・日本の中にアメリカ軍がいるのも平気」が示している。

 

(平成26年5月9日)