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先日、学校の先生が過程を大切にして入学式を欠席したことでショート論評を書いたら、「そんなの間違っている」と複数のおしかりを受けた。見直したら少し文章の筋が満足なものではなかった。

 

このブログの主旨は「合意に向かう日本」に進むことであり、また私は「個人の考えはいろいろあってよい。どれが正しいと決めないほうが良い」という考えだ。でも、合意に向かうためには「事実」、「論点」や「議論する方法」ぐらいは整えておいた方が良いと思っている。

 

この問題について、新聞では「すれ違いの議論」だったと感じている。つまり「家庭を大事にする」ということと、「職業が大切だ」という議論になっているけれど、その二つはともに「合意」できるが、論点としては、「学校の先生と言う職業は、医師や消防士のように家庭を犠牲にしなければならない職業かどうか」が「論点」ではないかという提案だった。

 

ただ論点の提案だけではなんとなく不十分なのでブログでは「私は今のところ学校の先生は聖職で、家庭を犠牲にしたほうが良い」という意見を述べた。

 

意見は違っても良いのだから、「お前は結論がけしからん」というのは望ましくない。もし私を批判した人が言うなら「提案されている論点が間違っている。論点は・・・だ」というか、もしくは「私は学校の先生は職業を大切にする職業と思うので、あなたとは考えが違うようだ」ということで良いのではないか。

 

現在の日本は、「事実」や「論点」がおろそかにされ、「結論」だけを急ぎ、さらに「結論」が人と違うと「自分が正しい」とする風潮が蔓延している。すこし表現が悪いが、あまり根拠を言わずにバッシングする人を見ると「あなた、神様?」と言いたくなることがある。

 

人間は誰も素晴らしい。だから「自分と考えが違う」というのは決して「その人が間違っている」ということではない。自分が間違っているのとその人が間違っているのは半々の可能性がある。

 

できれば日本人が事実を共有し、論点を整理し、そしてお互いの意見の相違を尊重するようになってほしい、そんな社会に住みたいと思っている。

 

(平成26430日)