私は日本の文部省(現在の文科省)はないほうが良いと思っている。その理由は、文部省がないアメリカや実質的に「指導」をしないヨーロッパの国の教育がなかなか高いレベルにあるからでもある。
特に自主的で創造的な心を持つ子供を育てるためには、文科省を止めるか、最低でも文科省が「学習指導要綱」や「学習方法」などについて「指示する」というやり方を止めることが大切だろう。
自主的で創造的な子供を育てるには、まず、先生が自主的で創造的でなければならない。約束も守らない先生がいくら子供に「約束を守れ」といっても普段の先生を見ている生徒の心には響かない。
日本は戦争に負けて「平和教育」、「民主教育」をしようとしたが、もっとも困難だったのが、「先生が平和教育、民主教育を受けていない」という問題だった。私が同じような体験をしたのが大学に移って教育、研究を始めたとき、ちょうど「大学の大衆化」と言われたり、「大学レジャーランド化」と揶揄されていたころだった。
ところが大学に行くと、「大衆化」したのは学生の方ではなく、先生の方だったことに気が付いた。学生はやはり若いので、教育によって変わっていく。あまり勉強が好きではない学生も学問に目覚めて立派になっていく。でも、多くの先生の方が「勉強、研究」がお嫌いなのだ。
普通の人はサッカーを観戦したり、赤ちょうちんで一杯やる方が、夜、シーンとしている大学の中で一人、英語の論文を読んでいるより楽しい。でも、大学の先生というのは、サッカーを観戦するとすぐ飽きて、大学で英語の論文を夢中で読むような人で、だからこそ若い学生が勉学に目覚めたり、優れた技術者になったりする。
つまり、小学校から大学まで、教育と言うのは先生の心が子供の心に火をつけるものだから、先生が立派になることが教育の全部なのだ。ところが日本に文科省がないほうが良いというのは、文科省が本来の教育が分かっていて、自分たちは後ろに下がり、先生に役立つ資料を提供したり、研究会を支援したりするなら良いのだが、「直接的な指導」をするから困る。
文科省の役人といっても、私が大学の学長補佐の時に相手にする文科省の役人は年齢が40歳以下、教育経験なしだから、もともと「教育は心が・・・」といってもまったくわからない。教育は単なる知識をある方法で伝えるものぐらいにしか理解できないことはすぐわかる。
だから、「指導要綱」のような具体的な方法を文科省で作って、それを配布し「これ以外のことはするな」というような通達を出すことになる。かくして日本の学校の先生が教育に対して創造的な活動や改善ができない人たちになってしまっている。
最近、さらにこれがひどくなってきて、「先生を指導する」というのがさらに具体的になっている。ゆとり教育が失敗したのは、先生がゆとり教育を実施する力がなかったからで、そこまで日本の先生に力は文科省によってそがれてしまっている。
大学の先生ですら、自ら勉強や研究が好きな人が減って、言われるままに教える人が増えている。
でも、これは文科省や政府が「教育は先生がやっているのだから、先生の力を上げなければならない」という「間接手法」に気が付けば改善できる。ぜひ、未来の子供たちのために「立派な先生」を作って欲しい。
(平成26年3月4日)