日本の文化には世界的にも「良いもの」が多い。先回、例に挙げた「道を聞いた時に知らなければ教えない」とか、「借りたお金は返す」などが民衆の文化だ。
やや制度とも関係する文化に「御白洲で罪を問われたら、正直に白状する」というのもある。アメリカのように犯罪を犯していても「私はやっていません」と言わないと裁判が始まらないという基本的な考えとは違う。
ところで、日本の文化のうち、もっとも大きく、また社会全体に及んでいるものが「奴隷がいない、平等な社会」があげられるだろう。これは現在の日本にも大きな影響を与えている。
アメリカやヨーロッパの国に行くと、日本とは違って「仕事の内容が限定されている」ことに驚く。レストランに行って床を静かに掃いている人に「ちょっと、注文したいのだけれど」と呼びかけても返事もしないし、こちらを振り向きもしない。黙々と掃除をしている。
そのうち、テーブルに水を持ってきた店員に「注文は」と聞いても、水だけを置いて行ってしまう。つまりレストランには、日本流に言う「店員」という人はいない。掃除する人、テーブルを整える人、注文を聴く人とそれぞれに役割が分担されている。
日本でもレストランで役割が決まっている場合もあるけれど、どの店員に聞いても「ちょっと待ってください。すぐ呼びますから」ぐらいは言う。店が繁栄することが自分にとっても大切と思っているが、アメリカやヨーロッパの人は「契約に基づくことをすれば、給料は同じ」という感覚だ。
どうしてこのような差ができたのかというと、アメリカやヨーロッパは奴隷制度や身分制度が厳しかったので、「掃除しかさせない」、「掃除しかできない」という人が多い社会だったからだ。
ある時、アメリカで大会社の副社長さんとゴルフをしたときだった。ゴルフの最中に盛んに電話をかけている。そして私に、「自分は世界で7か所の大きな事業所の責任を持っているので、いつもこんな風だ」と言い、続けて「でも、日本の事業所だけは手がかからない。従業員がみんな会社のことを考えてくれる」と続けた。
「士農工商」という身分制度は「職業の種類」であって、「人間を階級に分ける」というのではなかった。だから「農民がある時に武士に取り立てられれば武士」になった。人間自体の身分制なら、職業が変わっても身分は変わらない。
それに加えて日本はとびぬけて「平等意識」が高い国と言われている。江戸時代、参勤交代で街道を進むお殿様の籠に土下座している商人は、「まあ、一応、殿様なんだから頭は下げておこう。でも、昨日まで隣の兄ちゃんだったんだから」というような気持ちがあったといわれる。
この平等意識が明治維新になってから日本に大きな力を与えた。よその国が1割の指導層と9割の「ただ生きている人」だったのに対して、日本は9割の人が国のことを考え、文字を読むことができた。その一つの現象として、ヨーロッパの学術、文化の書籍を次々と翻訳したことだ。
身分制の国は、指導層が特権階級を維持するための道具が必要だったから、外国の優れた書物は自分たちだけの知識にするために母国語には翻訳せず、自分たちが外国語を学び、外国に行き、それで権威を保った。
180度違うのだ。
この原因が日本が島国であるのか、天皇陛下がおられて「天皇と国民」という二階級があったのか、それはまだ不明である。たとえば中国には王朝ができるとそのトップは「天子」と呼ばれたが、庶民でも権力を持つと天子になることができた。日本の士農工商のようなものだ。でも日本の天皇は血筋できまる本当の身分制だから、それで日本の身分制を代表していたように思う。
いずれにしても大きく違う文化の中で、今、私たちが問われているのは、異なる外国の文化を輸入するのではなく、自分たちで人生や社会を考えなければならないということだ。
(平成26年3月1日)