日本には「お祭り」というのが全国各地で行われる。多くは「その地域に住む人ならだれでも参加できる」という特徴があり、「踊り、音楽、若干の無理、裸、だし」などがキーワードだ。
冬になると決まって裸の男たちが寒さに震えて海に入って禊をし、その後、火祭りをするというようなお祭りがある。終わったらみんなで酒を交わして親睦を深める。この間、難しい話は一切なし、ただ「規則に従って、だれもが同じことをする」。
普段の仕事では利害関係もあるし、身分にも差があり、お金持ちや貧乏人として区別されることもある。でもお祭りのときには誰もが同じになる。日本になぜこれほどお祭りが多いのか? それは狭い日本国土の中で「和を以て貴しとなす」ということを実現する一つの方法だったように思う。
これと正反対の世界が「ネット」だ。顔は見えない、気軽に罵倒できる、ウソでも咎められない、「人間のクズ」と言ったり、「死ね」と言うこともできる。 人間の心は複雑だから、人を不幸にすることが喜びになることもある。
このネットの「反目文化」が日本社会をむしばみ、本当は真面目に相手を非難することなくじっくりと議論しなければ片付かない問題・・・戦争評価、隣国問題、経済成長の方法、今後も温暖化対策を進めるのか、教育、選挙制度・・・はいずれも途中で罵倒合戦になって、泥沼化している。
私もこのブログを書いていると、まだ「事実の確認」をしている段階で、「お前は何を考えているんだっ!」というおしかりを受ける。まだ私自身の判断をしていないのに、事実を書いているところで、「おそらく私はこう思っているのだろう」と先回りして、バッシングしてこられることが多い。
「まだ事実の確認をしています。この記事であげた事実のどこか間違っているところはありますか?」とお聞きすると、それは「無い」と言われる。「でも、私は違う」とご返事が来る。
「合意を目指す」ためには、まず「事実で共有できるものはどれか」をはっきりさせ、もしすべての事実を共有できたら、次に「同じ事実なのになぜ違う考えになるのか」を議論すればよい。ずいぶん、すっきりする。
反目するより合意する方がニコニコできるし、気分も良い。友達も増える。良いことばっかりなのに、そして事実を共有できたら、本当に考えは同じになるかも知れないのに、それを拒否する。なぜだろうか?
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人間は25歳の時に、自分が「正しい」と考ええることが固定して、それ以後、60歳ぐらいになるまで考えを変えない。それは一人の人間がある確信をもって人生を送るために必要なことなのだろう。自分が正しいと思っていることが人の考えを聞くたびに変わったら、矛盾だらけの行動になって収集がつかなくなる可能性があるからだ。
でも、25歳と言うとまだ勉強が終わったばかりで、ほとんど人生経験などはない。だから自分が「正しい」と思うことが間違っていたと感じることも多いだろう。でも、あたらしい「正しい」に変わることはできない・・・多くの人はこのように感じているに相違ないのだ。
だから、25歳までの勉強と経験が大切なのだが、なかなか教育で60歳までの正しいことをすべて知り、理解し、判断できるまではいかない。
いっそのこと、昔からのしきたりがあれば楽だ。お祭りがその一つだが、細かいことまでしきたりで決められているから意見の相違もないし、それに従っても自己否定にはならない。
この矛盾をどう解決すればよいのか?それが反目の社会を合意の社会に変える決定的なことだろう。いくつかの方法が思い浮かぶ。自分の人生の統一性を保ちながら、新しい事実を共有し、他人と議論し、新しい自分の判断を作り上げていく・・・その具体的な方法を発見すれば、仲たがいも離婚も、紛争も大きく減るだろう。
(平成26年2月22日)