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本来、学問と政治や思想は別のものだが、歴史的にも学問のテーマが政治化することが多い。ガリレオが「地動説」について異端審判にかかった時、(歴史的真偽は別にして)「それでも地球は回っている」とつぶやいたという話はその象徴でもある。

 

つまり政治や思想が「地球が宇宙の中心だ」というのは別に学問とは関係がないが、「それでも地球は回っている」という学問的事実には変わりはないという話だ。

 

ダーウィンが進化論を発表した時に、「人は神が創りたもうた」という反論に辟易し、「真実を知るには勇気がいる」と述懐したのもその一つである。

 

近年では、スターリン独裁時代のルイセンコ学説(共産主義のもとでは穀類・野菜はよく育つ)とか、ヒットラー・ナチス時代のゲルマン民族優位説(後に民族の虐待、虐殺につながる)、アメリカによる地球温暖化政治問題化事件(1988年に自ら言いだして、その後、25年間、アメリカは何もしない)などがその典型的なものである。

 

最近、日本でも相変わらず「政治や思想は科学の上にある。科学的事実より、政治や思想からの事実を優先すべきだ」という考えがなくならない。ある気象予報士が「温暖化で北極の寒気が蛇行している。アメリカのホワイトハウスがそういうのだから間違いない」とか、アメリカの国務長官が「温暖化に異論を述べる学者は過激な人物だ」といったと報じられるなど、「学問のテーマを政治や思想が指導する」という状態が続いている。

 

IPCCは学者の集団だから」というのも、ルイセンコ学派やナチス時代の大学と同じ考え方である。学者の約8割程度は「その時代の権力におもねる」。その原因は学者自体がその学問については良く知っていても、やや純情で世の中の汚れを知らないことや、現在の日本のように研究費のほとんどが役人が決めるというシステムなどがある。

 

IPCCは学者の集団だが、簡単にいえば「御用学者」の集団であり、1988年(アメリカが温暖化を言いだした年)まで近未来の寒冷化の研究をしていた学者はすべてパージされている。つまり政治と言うのは時に異論を許さず、学問は異論がもっとも大切な活動だから相反する。

 

もっとも、地球の気温に関しては、「寒冷化」が主流であり、「温暖化」は異論に属する。ただ、異論にお金と権力がついたので、現在では温暖化が主流のように見えるに過ぎない。「ホワイトハウスが言った」とか「アメリカの国務長官が」というのは、学問的な異論側に政府が付いた時に、異論が主流になることを示している。

 

すでに20世紀の前半、マックスウェーバーが「職業としての学問」という書を著していて、学問がお金のために動くようになったことを鋭く指摘している。学問から離れているので、温暖化のデータが科学的に不正確であることは仕方がないことである。

 

しかし、日本にも日本人としての誠の心を持った学者がいると思う。だから、学者は学問と「政治や思想」とを分離して、それによって社会に貢献することをもう一度、ここで意識をする必要があるだろう。

 

(平成26219日)