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人間は言語で「意思」を疎通するので、当たり前のことだが「言葉」というのはその人の考えまで支配してしまう。多くの人は、次の言葉を聞いて、現実にそのようなことがあったと錯覚している。

 

「東京裁判」、「環境破壊」
これらは事実を正確に表現すれば、
「東京リンチ」、「環境改善」
である。言葉一つで正反対になることがすごい。

 

「裁判」というのは国家制度や国際社会の制度の一つで、まず「制度を作ること」、「裁判所という存在を参加者が認めること」、「裁かれる行為をしたときに法律が存在すること」、「裁判官の資格を持った人が裁判にあたること」などの「要件」がある。誰かが「裁判」と言えば、「裁判」になるものではない。

 

だから、日本が戦争に負けた後に行われた、いわゆる「東京裁判」は、「国際法廷というものがなかった」、「戦争の前に世界(たとえば国際連盟)で合意がなかった」、「戦争の時に法律がなかった」、「裁判官を合意で選んでいなかった」ということだから、「裁判」ではない。

 

それでは、ある人たちが勝手に人を裁く場所を作り、そこで縛り首にするというのは「リンチ」と呼ぶ。したがって、いわゆる「東京裁判」は「東京リンチ」もしくは「東京リンチ事件」と呼ぶのが正しく、これを「東京裁判」と呼んでいる政府やマスコミは日本語を正しく使ってもらいたいし、最高裁判所なども司法の立場から「合意された裁判所で法律に基づかない判決は裁判の判決ではない」とはっきりするべきだ。

 

それではなぜ日本の知識人や新聞は「東京リンチ」と呼ばないのだろうか? 一つは日本人は自分で考えを作ることができず、アメリカ人が作ったらそれを模倣することしかできないこと、二つ目は今度の原発事故でも同じだが、定義や現実の内容についてはあまり関心がなく、「空気的事実」を重んじる傾向があること、三つめが新聞記者が用語を厳密に使わないことなどがある。

 

たとえば、新聞によく出てくる「温度差」という言葉などがその典型的なもので、この言葉は「温度差」ではなく「認識の違い」のような言葉なのですが、適当な言葉がなければ見当はずれの言葉を使うのが今の新聞記者です。明治の初め、多くの英語やドイツ語を日本語に直した福沢諭吉でも勉強して欲しいものです。

 

私が15年来、書いている「環境破壊はウソだ」というのも用語の間違いで、世界の自然環境、人間の住む環境は現実には「改善」されているのですが、それを「破壊」と呼ぶと、なんとなく空気的事実にあっているということです。

 

水質、空気の状態、気温、資源などどれをとっても50年前、100年前と比較すると改善されているのですが、なにか一人一人の心の中に「理想状態」というのがあり、それをもとに「破壊」という言葉を使っているように思います。

 

そして「環境破壊」というと、本当に破壊されているように感じるのが不思議です。たとえば事実としてはここ15年間、気温は変化していないし、南極の氷は今年の夏(日本の夏で南極の冬)は最大になったのですが、「温暖化している」とか「南極の氷が融けている」と言えば、そちらが事実になる(言葉が事実に優先する)ということになっています。

 

言葉をいい加減に使うことが、野田前首相のように「口に出したことは守る、まして書いたことは絶対守る」と言いながら、なにも守らないという社会を作っているように感じられます。

 

(平成25122日)