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「マナーを守れ」と言われる。確かに街を歩いてもマナーを守る人が少ない感じもするし、民主党の公約違反、ホテルの食材偽装などを見ると、全体として日本人の質が落ちているような気がする。

 

でも、日本人にとっては「正直、誠実、礼儀」などはわかりやすいけれど、「マナー」というのは英語でもあるので、ピンと来ない。なにがマナーなのかは世界の国によって全く違うし、ある人がマナーが悪いと思っても、ある人はそれで良いと思うこともある。

 

私などは古い人間だからかもしれないが、女性が人前で化粧をするのはとても嫌だが、それが当たり前という人もいる。時代や生きてきた周囲の様子、性別などでマナーに対する感覚が違うのはいわば当たり前である。

 

マンションで時々、問題になる「騒音」でも、私はあまりにも過度に思う。人が住んでいるのだから赤ちゃんの泣き声、子供の走る音、煮炊きする煙、時には宴会の声・・・そんなものの中に生活があるからだ。

 

つまり「マナー」を定義せず、議論せず、内容を決めずにただ「マナーが悪い」と言っても始まらない。問題は「守るべきマナーを決められない多様化の時代」と言える。その結果、小学校でも「マナー」、つまり「日本人として共通してこれは守ろう」ということを決められない状態にあるのだ。

 

小学校の時に物語の形をとって、「正直、誠実、礼儀」や「勤勉、我慢、努力」などを教えること、「掃除、寒稽古、遠足」などの体に関する現代風に言えば「体罰的教育」もとても大切で、国の発展や個人の人生の幸福を決めるもっとも重要な教育と私は思う。

 

しかし、現代の学校教育では異論が多くてできない。つまりヨーロッパ風の「マナー」などを問題にする前に、まず日本社会で共通した「徳目」を決め、それを小学校で教え、中学から大学で徳目にそった行動を求め、さらに社会では徳目に反する行為には厳しい制裁を加えるということをすることだろう。

 

たとえば、現在では講義に遅れてくる学生は、授業中に大きな声で私語する学生を叱ることができない。それは徳目がないので、「授業に遅れて何が悪い。俺の勝手だ」とか「私語する自由があるだろう」ということになるが、礼儀や努力といった徳目が合意されていたら、「授業の開始時間は先生と学生の約束だから、約束の時間に遅れてはいけない」とか、「先生が講義しているときには静かに聞くのが礼儀だ」ということを先生が言えるようになるし、基準も作ることができる。

 

それに応じて社会的な出来事はテレビなどで放映されるから、食材偽装や、被曝を促進するイベントなど、徳目としてふさわしくないことについて明確な態度を社会がとることができる。

 

日本が発展したのは「誠実」で「勤勉」だったからで、そのような社会を子供たちに贈るのは私たちの世代の役割だろう。

 

(平成251124日)