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暗い社会には「お前はうっとうしいんだよ。消えな!」というような言葉が発せられる。特に理由を言うわけでもなく、「うざい」、「吐き気がする」なども同様の言葉だ。実に下品で、人格も感じられない言葉で、このような社会で人生を送りたくないと私は思う。

原発の被曝問題もそうだが、本来は住みやすいはずの日本で、住みにくくしているとしたら「村八分」の悪しき伝統が、まだ残っていることだろう。

「他人を尊重する」というのは人間が社会生活を送る上でとても大切なことで、他人の思想信条や服装、態度、肌の色、男女などで「差別」をしないことは現代の日本ではもっとも大切な事と私は思う。それができれば、日本はずいぶん明るくなる。

それでは、「他人を尊重する」ためには、お互いにどのぐらいを我慢する必要があるのだろうか? それを決めるのは「他人に対する迷惑度合いが、社会が容認でいないほど」ということであり、「迷惑」は「他人に対して」に限定され、その「容認」はできるだけ寛容でなければならないと思う。

「目で見て不快である」を拡大すると、「お前は顔の作りが悪い」、「デブだ」とか、「季節外れの服装をしている」などになるので、行きすぎであり、せいぜい「卑猥な格好」ぐらいに止めておくのが良い。私はやや古いのか、鮮やかな緑に髪の毛を染めていたり、手や足の爪を伸ばしてものすごい色を付けているのは不快だが、我慢することにしている。

「臭いが不快だ」というのもある。強い香水を付けた女性、何かの病気で体臭が強い人、風呂にあまり入っていないのか汗臭い人・・・に会うこともあるが、少し避けるようにしている。「お前は臭いがきついから去れ」というのはちょっとやり過ぎと思う。少しの間は我慢して自分からそっと立ち去る

「音がうるさい」ので最近、多くの人が神経質になっているのに「電車の中の携帯電話」だが、私はグループで大声で話している方がうるさいし、小声で連絡だけをしているなら携帯も問題がないと思っている。

そんな社会のことを考えると「禁煙運動」は現代の日本で、「異常で品が無い」ように思う。もちろん、どこも構わずタバコを吸い、灰は散らすし、吸い殻はポイ捨て、煙を人の顔に吹きかけるなどは困るが、現在の日本の禁煙運動は、一人で静かにタバコを吸うのも止めろという。

タバコを吸うという行為の社会的影響は三つある。一つは「吸う人の健康問題」であり、これは社会的な禁止条件にはならない。もう一つは「副流煙で健康障害が起こるからイヤだ」というのがあり、これは分煙などで処理することができる。

そして三番目、これが本当の理由ではないかと思うのだが、「けむりがイヤだ」、あるいは「吸っている人の態度がふてぶてしい」という理由だ。

実は私が禁煙運動に疑問を投げかけているのは、禁煙運動が「吸う人が肺がんになる」ということだけの時に始まっていることだ。副流煙問題は1990年代からであり、今でもその健康障害はハッキリしていない。私は副流煙で健康障害がでるというなら(その影響はきわめて僅かなので)、砂糖入りのコーヒー缶、自動販売機のお酒なども販売制限をするべきと思う。

まして、「けむりがイヤだ。ふてぶてしい」という理由は今でも表面には出てこない。陰湿な禁煙運動(本当の理由を言わない運動)だ。

「人の行動を制限する。人を支配する」という欲求は人間に強い。だから、タバコを吸う人を何とかしてバッシングしたいという気持ちはわからないでもないが、これほど社会で特定の人たちを理由もハッキリしないまま排斥しようとするのは社会が暗くなるだけだ。もし禁煙運動をしたければ、「他人に対する迷惑が、他のことと比較して社会が容認できないほど」ということを制限にして欲しい。

そうしないと「お前はデブだから電車が混んで困る。うざいから消えろ!」という社会になってしまう。

ところでなんで禁煙運動の人は禁煙運動をしているのだろう? 他人の健康を心配してという割にはあまりに攻撃的だから、他人の健康を心配しているようには見えない。やはり、「自分がイヤだから」というように感じられる。

「人がタバコを吸っているのを見るとむしゃくしゃする」というなら、それはきわめて危険な気持ちだから少し修行をして、心を抑えた方が良いだろう.「村八分」、「差別」などと同じ気持ちの動きだからだ。

「副流煙が危険」というのは科学的には根拠がないが、考えとしてはあり得る.その場合は「自分が危険」であるときに限定するのが良いだろう。「他人が危険」という理由で自分が激しくタバコを嫌うのも行きすぎだからである。

他人に直接的な迷惑をかけなければ「思想信条の自由」は大切で、「タバコを嫌う自由」と共に「タバコを吸う自由」もあることをこの際、みんなで確認したい。

被曝問題やその他の社会的なことで悩んでいる人が多いけれど、それは「ゆえなきバッシング」だからだ。私がやや執拗に禁煙運動に自制を求めているのは、日本社会からゆえなきバッシングを減らしたいからでもある。

(平成25820日)