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中国とイギリスの間で起こったアヘン戦争は隣国・日本に衝撃を与えずにはおられなかった。当時、長崎でこのアヘン戦争についての詳報に接した吉田松陰は驚愕した。平戸滞在中に松蔭が読んだとされる書物に「阿芙蓉彙聞」七冊があり、松蔭がその後も必読書としてあげているものにも「阿片始末」がある。

もし日本がヨーロッパに侵略されたら、日本人は殺され、痲薬を吸うことを強制され、日本は崩壊してしまうと思っても不思議ではない。それが歴史的事実だからだ。吉田松陰自身は安政の大獄に連座して処刑されたが、彼の思想はその後長く日本政治に影響を及ぼした。

つまり、世界でもまれに見る「無血」の政権交代、つまり260年続いた徳川幕府が江戸城を無血開城して、内戦をほとんどしないで明治維新を迎えたのは、必ずしも偶然ではなかった。

当時の江戸幕府はまだかなりの力を持っていたし、戦闘能力もあった。しかし、ヨーロッパの強い圧力が「そんなことをしていると危険だ」という雰囲気を作り、そこに西郷隆盛、勝海舟という英傑が登場して政権が委譲されたのは日本にとって幸運なことだった。

当時、イギリスから派遣されていた大使オールコックなどヨーロッパ諸国は日本の利権の奪い合いをしていたが、日本人はどうも他のアジア民族と違うという意識はあった。

オランダから寄贈されたスヌービング号という蒸気船を指導に来たオランダの技師カッテンディーケはちょんまげを結い、刀を差し、白昼でも甲板で所構わず小便をする「武士」という集団が、臆することもなくスパナを握って蒸気船のエンジンに取り組むのにビックリしていた。

ヨーロッパの学問や技術をためらうことなく吸収する日本人は指導したオランダ人には奇異に感じたらしい。

日本刀を腰に差して結局単独でスヌービング号を江戸に回航した。こんなことは他のアジアアフリカの人にはない特徴だった。また黒船を東京湾に進出させて「一般公開」すると「普通の日本人」が我も我もと小舟に乗ってきて乗船し、物珍しげに船内を見ることも驚きだった。

他のアジアアフリカ民族なら遠巻きにするし、上層部は別にしても庶民が平気で近づいてくるなどということは無かったからだ。

このような現象は「ヨーロッパの学問的書籍の翻訳」でも日本らしさが爆発した。杉田玄白の解体新書が日本語に訳されたのは有名だが、理工学書の多くが翻訳され、福沢諭吉はヨーロッパの単語を翻訳できるように、膨大な造語辞典を作った。

ヨーロッパの言葉がわからなければダメというのではなく、日本人なら誰もがヨーロッパの学問を勉強できるようにしたのも、アジア、アフリカ広しといえども日本だけだった。

当時、世界でヨーロッパの侵略を免れていたのは、中国の日本だけだったが、中国は衰えた清が政権交代しないで次々と領土や利権を外国に手放したのに対して、日本は衰退した徳川幕府を明治政府に変えることができたので、ヨーロッパ勢も日本への侵略には躊躇していた。

あれほど人望があり、維新の最大の貢献者が「征韓論」を唱えたとき、鹿児島から明治政府に入っていた人も、その他の重要人物も西郷隆盛から離れた。「我々の敵はヨーロッパ勢だ」ということについてのコンセンサスが日本の上層部にあったからだった。

かなり足早に進んできたけれど、歴史はまず「大きな流れ」から整理を進める必要がある。細かい年号も歴史の専門家なら当然必要であるし、細かい年号が決定的な意味を持つこともある。でも、それより遙かに重要なのは「歴史の大きな流れ」であることは間違いない.

「明治維新はなぜ起こったのか?」、「なぜアジア・アフリカ・アメリカのなかで日本だけがアーリア人に占領されなかったのか?」ということをまず考えて見ると、もちろん、偶然ではなく、ヨーロッパ勢が世界制覇を進め、その最終段階として中国と日本を取りに来た.中国は「清」という古い政権のまま持ちこたえようとしたけれど、失敗して領土を食い荒らされていた.日本は何とか徳川幕府から体制を入れ替えて近代化を進めて、侵略されるのを防ごうとした.その一つの理由が日本人が科学技術を理解できる民族だったこと、階級制がなくヨーロッパの書籍を翻訳したことなどが考えられる。

歴史的事実としては、日本はその後、軍事力によって独立を保って植民地になるのを防ぎ、さらに日本自体がヨーロッパ勢の仲間入りをして国の力を増やしていった. 日清戦争から大東亜戦争にいたる約50年。日本の取った道は、必然的だったのか? 侵略的だったのか? 最も望ましい選択をしたのか? まだ日本の歴史はその見解を示してはいない。

でもすでに大東亜戦争が終わって70年。充分に冷静に歴史を考える時間は与えられている.そこでここでは、日清戦争から大東亜戦争までの経過を最小限のスペースで整理をして、さらに理解を深めていきたいと思う.

(平成2587日)