20世紀の初め、ロシアは雪崩のごとく極東に勢力を伸ばし、モンゴルの領地を取って、さらに満州北部に来て、「ウラジオストック(東の支配)」を建設した。その後、満州を南下して旅順に軍港を作り、さらに現在の韓国・釜山の近くの鎮海湾を軍港にすると宣言した。
地図でわかるとおり、モンゴル(韃靼)、中国(清)、朝鮮の領土を次々と侵略していくロシア・・・今では考えられないことだが、それが20世紀初頭の白人のやり方だった。そして有色人種は圧倒的な白人の軍事力に屈していた。中国(清)は戦わずして満州をロシアにあげ、ロシアが鎮海湾に来るのも間近になった。
もともと鎮海湾は自然の良港で日本に蒙古が襲来したときに軍船が出航した場所である。ロシアは、鎮海湾に軍港を作ったら、ウラジオストックから新潟へ、鎮海湾から佐世保港へ、さらに台湾に進出する計画だった。
今では考えられないことだが、「侵略」とはこういうものだった。ロシア陸軍は最強だったから、陸伝いに韓国の南まで進出するのに妨害できる国はなかった。
当時、ロシア皇帝はニコライ二世だったが、あまりに強引なやり方にドイツ皇帝が「やり方が乱暴ではないか」と注意をしたとき、ニコライ二世は「東洋のサルなど反抗してくるはずはない。余が戦争を為ないつもりなので、戦争など起こらない」と言った記録がある。
日本は日清戦争で朝鮮を独立させ(当時、朝鮮は独力では独立できなかった)、共同でロシア進出を止めようとしたが、朝鮮は戦うことは嫌ったので、鎮海湾にロシアは軍港を作る計画を示したのだ。
日本としては、鎮海湾から佐世保港、台湾、それに新潟を取られるか、それとも戦うかの選択を迫られたのだった。ちょうど、玄関に強盗が来て扉を叩き、あと10分もすると玄関が破られて強盗が家の中に入ってくる・・・家には幼い子どもや女がいる・・・という状況に至ったのだった。
これはアジアの植民地となった他の国とまったく同じだった。植民地になると女性は乱暴され、優れた若者は両手首を切り取る・・・それが当時の白人のやり方だった。
反日日本人はロシアはもちろん、女性を自由に乱暴したポルトガルも、手首を切り落としたイギリスも非難しない。
(平成25年6月16日)