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新しい道徳律はこれまでの道徳律とは違うもの。

その本質は「正しいことは一つ」という概念から、「正しいことはいろいろある」への転換。今が、そのスタートライン

(理由)世界はすでに複数の正しさがあり、それが統一されるのに時間がかかる。

そうすると、まず、相手の正しさを互いに認めてから何事も始める.

アーリア民族は「他人の土地やものを暴力で奪って何が悪い」というのが正しく、もともと正しくないことを正しいとするのだから「屁理屈」がいるし、それが「学問」だと考えている.アーリア人にとってはこれが正しい.

中国人は「自分が得をすれば、民族とか国家など意味が無い」というのが正しいという考えだ.でもそれはあまり露骨に言うことは憚られる.だから、事実でなくても紙に書いたり口から言えば事実になると考えていて、それが正しい。

日本人は他の民族が、その民族としての正しさを持っていることを認める事だ.

次に、日本人が日本という国家の中で幸福に生きることができるのに、ほぼ全員が合意できる「正しさ」を決める。その正しさは日本人本来の性善、礼儀、誠実などを「神道、仏教、儒教」が補強した道徳律に、「集団が繁栄する方向」、つまり和を以て貴しとなすに向かうことを一つの制限とするのだろう。

(平成25520日)