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もともと仏教というのは、インド社会の変化から生まれたもので、現代になって思い浮かぶ仏教とはかなり違う。

当時、というのは紀元前5世紀ぐらいだが、鉄器が使われるようになり、社会が発展し、商人などが力をつけてきた。しかし当時のインドのバラモン教は商人を下等な人たちとしていたから、精神的な安定が得られなかった。

この商人やその他の新興の人たちの精神的なよりどころとして仏教が誕生してきたという背景がある。お釈迦様が優れていても、誰も耳を傾けなければ見いだされない。

これは仏教ばかりではなく、ゾロアスター教(イラン民族統一のため)、ユダヤ教(ユダヤ民族統一のため)などの特定の目的を持っているのが普通である。

ところが、一般的に「教祖」という人はかなり偉いので、あれこれと細かい規則などは言っていないし、ましてイエス・キリストの福音書とローマ法王の屋敷などは到底、一致していないように思うけれど、教祖以外は普通の人なので、どうしても娑婆の汚れや権力闘争が起きて、変質していく。

だから、「***はこういうことだ」とあまり厳密に言うと、すべては教祖と現在は違うと言っても良いだろう。そして教祖ご自身も今の私たちが想像するより「普通の人」だったかも知れない。昔の人というのは時代が立つとだんだん、抽象化し聖域化されるものだからだ。

「心の問題」を考えるには「宗教」は欠かせないが、そこで言う宗教は「後の普通の人が作り上げた幻想としての宗教」ではなく、教祖のような偉い人が言っていることに常に帰ることが大切なように思う。

今、天照大神、お釈迦様、孔子様、ゾロアスター、モーゼ、イエス・キリスト、マホメットが一堂に会して人間のために話し合ったら、穏やかに「まあ、そんな所ですね」と言うことになるだろう。決して「異端だ!」と叫んで殺し合いをなさるとも思えない。

宗教が存在するのは人間に頭脳の欠陥があるからだが、人間が人間である限り、それは避けることも解決することもできない。その意味で新時代の宗教は教組に帰って緩い教義を尊重するのだろう。

(平成25517日)