「教育勅語」と聞くと多くの人が身を引きます。先日、ある女性にいる席で教育勅語を読み始めましたら、厳しい顔をされたので、読み終わった後、お聞きしたら「教育勅語って、そんなものなのですか!」とビックリされていました。
やはり「教育勅語には触れてはいけない」と思っておられたようでした。これも戦後教育の結果なのでしょう。戦争後、教育勅語は悪の権化とされ「日本の教育はどのぐらい教育勅語から離れることができるか」が問われるようになりました。その教育勅語はどのようなことが書いてあるのでしょうか?
教育勅語は1890年、今から122年前の日清戦争の前に発布されています。その現代語訳を以下に示します。
「父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の手を広げ、学問を学び手に職を付け、知能を啓発し徳と才能を磨き上げ、世のため人のため進んで尽くし、いつも憲法を重んじ法律に従い、もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕える」(教育勅語そのままの口語訳)
父母、兄弟、友人との関係は「正しく」書かれていると思います。特に今から122年前でまだ家父長制や男女が平等で無かったと言われた頃、「妻は夫に従い」などというのではなく、「夫婦は調和良く協力し合い」とあることを多くの人は知らないと思います。夫婦は対等で協力するものとされていて、実に先進的です。
「慎み、博愛、学問、知能、徳」、「世のため人のため、法律を重んじ、非常事態に備える」ということも素晴らしいことに思います。表現の方法としては「法律に従い」を「法律を守り」、「勇敢に仕える」を「勇敢に行動する」ぐらいに修正すればまったく立派な教育方針と言わなければなりません。
この教育勅語が批判され、悪の権化と言われた結果、父母、兄弟、夫婦、友人との関係は崩れて離婚の多い夫婦、家庭内暴力を振るう子ども、兄弟のいがみ合いが増えてきました。また「慎みの無い日本人」が多く出現したことも合意されるでしょう。
そして、人間は社会的動物であり、社会が安定し国家が存在するのに恩恵を受けているのに、自分だけが得をする、権利だけを主張する人を育てました。
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今、社会や教育、家族の現状に問題点を感じている人で、この「教育勅語」の文章とそれに基づく教育が不適切だと感じる人は少ないと思います。でも、それが現代の日本では「教育勅語」という言葉さえ発するのを憚られる(はばかられる)という状態なのです。ここにさまざまな問題が発生する理由の一つがあります。
なにが「正しいか」というのはもちろん「形式的」なものではなく、「その人に言っていること、そこに書かれていること」の内容が「正しいかどうか」を決めることは当然です。
でも、野蛮な状態では「殿様が言ったから正しい」とか、「偉い人に従う」ということが主力で、その人が何を言おうと中身は問わないということでもあります。それに対して文明とは「自分自分が判断力を持ち、何が正しいかを判断する」という状態でもあります。
「あいつは魔女だ」というのは野蛮で、「もし魔女らしければ裁判に訴える」というのが文明ということです。その意味で、これからの教育を考える時私たちは「教育勅語というものに書いてあるから排斥」というのではなく、真に子どもたちのために「現代の日本では何が正しいとできるのか?」について考え直してみなければならないでしょう。
(平成25年3月20日)