「sports02atomodoritdyno.92-(9:15).mp3」をダウンロード

WBCの台湾との一戦は素晴らしかったですね。貧打の日本が最後に追い詰められ92アウト2ストライクになった時には「残念だがこれで終わりだな。負ける相手が台湾だからせめて気分も晴れる。台湾には震災の時にもずいぶん御世話になったし」と思っていました。

それが中日の井端(今では井端などと呼び捨てにすると怒られる。井端様と言わなければならないが)の一打で同点になり、まさに起死回生の一打でしたし、野球の醍醐味を味わった瞬間だったと思い出します。楽しかった。

先回、1991年にバブルが崩壊すると、日本は「8.8倍の成長を、どうしたら1.92倍まで戻すか」という実にもったいない活動を始めたということをかきました。せっかく、みんなで頑張って8.8倍の成長をして世界の一流国になったのだから、そこを起点にして計画を練るべきなのに、貧乏だった時代の自分の感覚に合う成長率まで戻そうとしたのです。

(簡単に言うと、月10万円の生活から88万円を使うようになり、「もったいない」と感じて、50万円ぐらいに下げる努力を始めた)という事です。また88万円の中には自分の給料は50万円ぐらい。その他、新幹線、道路の舗装率、学校の建て直しなどもあります。)

豊かな生活から、貧弱な生活に戻るのにもっとも良いのが「仕事をするにしても、できるだけムダなことをする」ということなので、それに適しているのがリサイクルや温暖化などの「架空の環境問題」です。

経済活動というのは理屈通りですから、大気が汚染されていて病人がでるような状態では、企業の仕事も順調には行かないし、病人が増えて社会的経費がかさみます。そのような状態では、環境の改善はそれによって新しい社会の価値を生むのですが、バブルが崩壊した1990年頃にはすでに環境問題は解決していました。

つまり「贅沢が行きすぎている」と感じるのもトラウマなら、「環境が悪い」というのもトラウマです。ヨーロッパやアメリカでも「環境運動家」が活躍した時代ではありましたが、先進国の環境運動家は少数派で「建前は環境も大切と良いながら実態はより豊かな生活を求めた」のが実態でした。

ところが、もともと植民地を持たず、始めて豊かな生活を体験した日本人はうろたえ、恥じ(正しいが)、そして本当に架空の環境問題と取り組み始めたのです。しかし、もともと環境問題など存在せず、実体のないものだから、環境の投じるお金はすべて無駄になりました。

皮肉なことですが、「架空の環境問題」に取り組むのは、「後戻り」のためには有効で、同時に富を生まない活動をする官吏にとっては絶好のテーマだったのです。さらに発展を狙った通産省の大型レジャーランドや大規模工業団地構想はことごとく敗北し、なんのアウトプットも生まないリサイクル、ダイオキシン、そして地球温暖化と際限も無いムダが続き、日本人の活動力は逆向きに使われたのです。

少し具体的な話をすると、1990年代の終わりの「リサイクル」とは「このまま物を使っているとゴミ箱が満杯になる」という奇妙な話から始まったのですが、その当時、私が計算すると、満杯になるまで150年という計算でしたが、新聞は「あと8年でゴミが町にあふれる」と言い、私をバッシングしたものです.

どちらが正しいか等と言う議論はされず、なにしろ「ゴミがあふれる」と信じたい日本人は必死になってゴミも減らないリサイクルを始めたのです. それから20年、リサイクルはほとんどされていないのに、ゴミが町にあふれる様子はない。もちろん事実としてはゴミがあふれるというのは「ウソ」であり、単なる「貧乏になりたいという希望」だったからです.

本当はリサイクルをしないで、そのお金で保養所に行って温泉につかれば良かったのですが、経済的にはどちらでも「生産を生まない消費活動」だから同じ事で、反省をしたくなった日本人は皮肉なことに「楽しむのは良くないから、苦しもう」とリサイクルを選んだのです.

・・・・・・・・・

日本人の節約や勤勉な精神はどこで作られたのか、ややわかりにくいところもあります。江戸時代の職人も勤勉でしたが、「人生は何が目的か」と言うことは良くわかった上での勤勉で、職人は「人生は遊ぶためにある.だからガキとカカアのメシを稼げば、後は遊びだ」と外に飛び出していたのです.

しかし、現代の勤勉は「すべてを捨てて勤勉だけに尽くす」というもので、きわめて異常です.つまり日本文化にもない節約が今、行われているのです.しかし、「豊かな生活は要らない.高度成長したのは間違っていた.だから貧乏に戻るのだ」という知識人の仕掛けは見事に成功し、バブル崩壊からほぼ成長せずに今日まで来ています.

そして、その20年間、必死で成長してきた中国に抜かれ、今では尖閣諸島を脅かされるまで衰退しました。日本人は「高度成長のために高度成長をする」という無目的な活動をし、高度成長が成功すると、その結果に恥じて「高度成長を無にする活動をしなければならない。日本人は全世界の人の犠牲にならなければならない」と考え、やがて「日本人だけがCO2の削減をするために電気を消す」という暴挙に至ったのです.

目的のなくても必死で働ける民族、それが日本人のある側面でもありますが、同時に子どもたちに暗い未来を提供していることも知るべきでしょう。

(平成25216日に書いた物を一部修正して掲載)