再び教育基本法第一条(改正前)を示します.
「教育は,人格の完成をめざし,平和的な国家及び社会の形成者として,真理と正義を愛し,個人の価値をたつとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。」
教育の存在意義(1)では、このうち、「正義」、「個人の価値」について考えてみましたが、第二回目には「勤労」と「責任」、それに「自主的精神」について検討してみたいと思います.
日本国憲法が「勤労の義務」を定めた経緯は複雑ですが、数人の熱意のある人がいて、憲法条文に入ったようです。私はよく頑張ってくれたと感謝しています.
日本国民全体から見ると、誰かが働いてお米を作り、自動車を作ってくれないと私たちは生活をしたり、楽しい毎日を送ることはできません。
それがかつてのギリシャのように、確かに哲学や芸術は盛んだったかも知れないけれど、生産のほとんどは戦争で取ってきた奴隷に任せるという文化は日本には適さないからです.
近代ヨーロッパでもその伝統は引き継がれていて、国内の奴隷の代わりに植民地の人に働かせ、自分たちは文学、芸術、科学を発展させ、紅茶とパーティーを楽しむという生活を理想としていたのです.
もちろん、働く時間が短いし、植民地から収奪したもので生活ができるのですから、芸術や学問は発達し、それが故に明治以後の日本の文化人のほとんどはヨーロッパを尊敬しています.
今でもドイツが「リサイクル」と言えばリサイクル、「太陽光発電」と言えば太陽光発電と相変わらずヨーロッパ崇拝が目立ちます.私は「自らの生活に必要なものは自らが働く」という日本文化の方が良いような気がします.この考え方があったからこそ、日本には奴隷とか農奴などがなく、働いている人を尊敬する風土ができたのだと思います.
かつて私が「伝統材料研究会」を主催し、年に数回、伝統技術の職人のところに言っていた頃のことです。研究生や学生と一緒にある職人のところを訪ね、私がその職人にお礼を言い、深々と頭を下げていたのを見て、同行した中国の学者が「先生、あんな事をしてはいけません.先生は大学教授なのだから、職人に頭を下げるなんてダメです」と注意されました.
国によって文化や感覚が違うのは仕方が無いのですが、私の感覚では大学教授と職人でどちらが上ということはなく、それぞれの職分を果たし、相互にその仕事を尊重するというのが日本と思っていましたし、今でももちろん同じです。
私がエコポイント、太陽電池、補助金というのが好きでないし、生活保護の人は「働けないならお金をもらうのは仕方が無いけれど、贅沢をしてはいけない」と言うのは、「日本人は額に汗して働き、それで人生を送る.どうしても生きていくことができなければ、お隣からお味噌を分けてもらうぐらいは良いが、テレビを買うのにエコポイントのお恵みを受けるようになったら日本人ではない」という考えですから、そういう意見になるのです.
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「責任」が大切なことは言うまでもありませんし、教育をするときに子どもに常に「自分で責任を取りなさい」と求めます.でも、最近、政治家やマスコミなどの日本の指導者、目立つ人が責任を取らないので、子どもに教えるのはかなり困難になってきました.
指導者が乱れれば国乱れるのは当然のように思います.2012年の総選挙では、民主党が比例区の票を激減させましたが、「増税無き財政再建、**無料化、衆院80名減員」を公約に掲げたのですから、できなければ「すみません」といって解散して出直せば、せめて子どもに範を示すことができたと思います.
その意味では自民党は公約違反の民主党と三党合意して、増税に賛成したのですが、教育基本法的な考えからは「たとえ増税に賛成でも、君(民主党)と組むわけにはいかない.増税より公約を守らない政党と一緒に行動することはできないのだ」と子どもを諭さなければならないからです.
泥棒と組んで盗んだお金とあわせて事業を立ち上げてはいけないのと同じです.自民党が増税案をいったん白紙に戻して、再度、提案することを期待します.
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教育で問題になっているイジメも「責任」、「自主的精神」がもっとも大切ですが、現代の日本社会では子どもにだけイジメを止めさせることはできません.その意味で教育基本法(旧条文)をかみしめるのは、私たちの社会を良くすることにも大切と思います.
(平成24年12月17日)