社会に専門家というのは数が多く、たとえばタクシーの運転手や寿司職人なども専門家です.また古くは大工の棟梁が典型的な専門家でした. そして、専門家とお客さんには他の仕事に見られない特徴があります。それは「お客さんは希望を述べるだけ」というものです。
たとえばタクシーに乗ると「行き先=希望」だけを言うのが正しかったのです.そうするとタクシーの運転手は「わかりました」と一言だけ言って、自分の専門知識の中でもっとも早く、安全に目的地に到達するようにお客さんを運びます. 最近ではお客さんが道を指定することもありますが、これはタクシーが専門性を失っていることを示しています.
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寿司職人の場合もそうで、カウンターに座ったら「大将、握ってくれ」と言えばよく、職人は「へい!」と一言。客の好みと仕入れ状況からもっとも客が楽しむことができるものを握ります.
寿司はどこにも「お値段と食べた量」を示すものがありません.「あがり」を飲んで払うだけです。職人がどれをどう勘定しているのか、そんなことを聞くのなら寿司を食べにいかなければ良いということです。
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日本の棟梁(つまり大工さんで一級建築士)はお客さんから注文を聞くときに「家の形、間取り」などは一切、聞きませんでした.「棟梁、わしの家は4人家族で、ちょっとゆっくりしたいのだが。仕事場は少し狭くても良いから、頼むよ」と希望を言います。
棟梁は「わかった」とこれも一言、言って、その人の希望に沿うように専門知識を駆使し、かつ街の景観を損なわないように外見を工夫するのです。だからかつての日本の町並みは綺麗で揃っていました.
今でもフランスのパリやアメリカの住宅地に行くと整然と並んだ建物が印象的ですが、これは顧客が「希望」を述べて「方法」を指定しないことによっています。そればかりではありません.棟梁は山にいって「建てて後にも生きている木」を探して、それを使います.だからとても快適な家だったのです.
今では「専門性」というのはヨーロッパ文化と考えられて居ますが、実は、日本文化は専門性を尊重したのです.
建築関係では、明治になって「設計と施工」が分離し、先進国の中では日本の建築はダメになりました.日本の一級建築士は顧客の希望ばかりか、外観、間取りなどを聞いて、不揃いのレベルの低い建築物を作るので、なかなか世界で認めてくれません.
私は「技術者資格の国際承認」についての国家の委員をしていましたが、日本の一級建築士は「専門家」ではないということでなかなか海外で資格を有効に使うことができませんでした。
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専門化されたこの社会で専門の人の力を活かすには依頼する人はできるだけ希望だけを言った方が良いのです.お医者さんが優れていれば「どうも風邪気味で熱っぽい。お願いします」ぐらいが良くて、それを聞いたお医者さんが適切な治療をしてくれる・・・決して「注射を打ってください」とか「抗生物質が欲しい」などと言わない方が治りが早いはずです.
でもそれには前提条件があります。それは「双方に誠実である」と言うことで、特に専門家の方が「職業倫理に徹している」ことが求められます。
でも、現代社会ではお金儲けが大切になって、職業として守るべき事がおろそかになっています。タクシーは遠回りをし、いかがわしい寿司職人は高いネタをつかい、最近ではお医者さんまで疑われる時代です.
原発などはもっと酷く、実際に爆発しているのに「安全だ」という専門家がいたり、自分で1年1ミリの限度を決めておいて、事故が起こるとコロッと変わるのですからどうにもなりません.民主党の政治家はもちろん専門家以前でした.
でも、もし社会の人が幸福になるためには、それぞれの専門家が誠実であることが良いに決まっています.そうしたら安心してタクシーに乗り、安心して寿司屋に行くことができるからですし、日本人は絶対にそうなることができると思います。
その意味で、日本の発展のために(子どもの未来のために)「専門家の誠実さ」は格別に大切なのです。せっかく天皇陛下(国民の幸福を毎日、祈っていただける人)がおられるのですから、日本だけでもそうしたいですね。
(平成24年12月18日)