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ご無沙汰しております。先生にはおおむねお元気とお聞きしておりますが、いかがお過ごしでしょうか? 私は相変わらずもがきながらの人生を送っています。

さて、最近、二つほど考える事があります。

一生を自然科学の研究に携わってきた自分を振り返ると、研究自体はエネルギー、分離、材料、自己修復、環境などについて、研究目的は工学的、研究手法は理学的だったような気がしますが、おおむね順調でした。研究に携わったおかげでずいぶん勉強をする機会に恵まれ、人生の深さも幅も広がったような気がしております。先生からのご薫陶、同じ研究者の方からの刺激などにも恵まれていました。

今でも「燃焼しない有機材料=火災を無くす」という研究で毎日、学生とやりとりの日々を送っています。自然は常に私たちの頭脳の間違いを指摘してくれますので、それだけで研究の意義を感じます。

ただ、私の人生で2つほど間違ったことがありました。それは不完全な原発を推進してきたこと、持続的な社会は節約が基本だと錯覚したことです。両方とも私の論理破綻と科学に対する信頼性の不足にあったような気がしております。一つ目の原発の問題は、それでも間違いの原因や今後の対処などがわかりやすいと思います。科学は事実に忠実であることが基本ですから、自分の半生を原子力に費やしたからという人間的なことで、福島原発爆発という事実を軽く見るということは適切ではないと考えています。

しかし、私の最も大きな間違いは「資源の有限性」について社会の雰囲気(空気)に影響を受けて、科学的な視点を持っていなかったとつくづく感じています。「資源が有限であるか?」、「資源が有限というのは現在の生活にどのような形で結びつくべきものか?」、「科学の進歩と資源の有限性の関係」などの主要な問題をほとんど考慮せずに、「資源が有限だから持続性社会は構築できない。従って節約」と短絡したのが大きな問題でした。

この矛盾に気がついたのは15年ほど前、足尾銅山の生産量の推移を自分でグラフにプロットしたこと、先生から非鉄金属資源の寿命の表をいただいたときです。

「足尾銅山はどんなことをしても枯渇するが、世界の銅は当面、枯渇することはない」という事実を「グローバリゼーションと科学の進歩」という意味で、どのように解釈するべきか、それから15年もかかりました。

現在の私の見解は「現在と近未来の工業の発展と地球に埋蔵されている資源(石油系、鉄鋼系、アルミ系、非鉄系、レアメタルなど)、および科学の発展を考慮すると、1000年以内の資源の枯渇はない.さらに、人間の頭脳と科学の進歩を考慮すると1000年を超える考察は不要である」となりました。

私としては十分なデータと論理を持っていると考えていますが、ただ東大を中心とする日本の学者の方との間にまだ大きな隔たりがあり、その理由が不明であることです。学問ですから、結論に違いがあるということは問題はありませんが、あまりにも溝が大きく、議論を進めることすら困難です。なぜ同じようなフィールドで科学の訓練をしたものが相互に意見も交わせないのか不思議です。

しかし、これを「社会との関係」という点で見ると、工学や資源に関係する学者が仮に間違った情報を社会に提供し、その結果、社会、特に日本社会が苦しんでいる(たとえば活動を制限して、本来ならその人の人生の中でできることができなくなる)とすると、これは大きな問題と思うからです。イタリアの地震学者が地震の予知に失敗して禁固刑の判決を受けたことは大きな警告と思います。

「持続性社会は節約でしかもたらされない」とする日本の主力学会や学者の見解と、「持続性社会は科学のイノベーションによってもたらされるので、節約こそが非持続性につながる」という私の見解とが大きく異なるからです。

最近では「貨幣経済のもとでは個人の節約(環境と資源という意味での節約)は不可能である。日本国家は節約の必要性がない」と講演をし、かならず「もしご意見や異論があれば教えて欲しい」と呼び掛けていますが、今のところお一人も「個人の節約はできる」あるいは「日本は国家として節約の必要がある」というご意見を言ってくれる方はおられません。

これらの重要問題にご関心のある学者は少なく、学会での議論は期待できない状態です。「日本に立地する原子力発電は危険である」、「福島原発事故直後、学会員の風向きに関するデータの公表を禁止した気象学会は学術会議認定学会からはずさなければならない」、「地下資源は科学の進歩を考慮すると枯渇しない」、「地震予知を学者が社会に向かって直接、表明した場合は、予知が不正確な場合、学者は罪を問われる」というような論文は提出先が不明で、かつ受理される可能性もありません。

科学として重要だと思われるこれらのテーマが「功成り名を上げた科学者だけが講演や巻頭言などで発言できるが、一般の科学者には発言の機会が与えられてない」ということをどのように打破すれば良いかを模索しています。

(平成24117日)